「君たちはどう生きるかの哲学」という本を読んでいて、「自分の問題」が何なのか、という問いかけが人生のテーマに繋がっているという話があった。
自分の場合には、何が問題なのだろうかと考えると、「カッコいいこと/大人」ではないかと思う。
話は変わるが、好きな物語-コミックでも映画でも小説でも-は、限界の限界まで追い詰められて、そこからどう這い上がるかを描いた作品だ。
最近では、不良高校生が突然絵を描くことに目覚め、美大を目指す「ブルーピリオド」がよかった。
マンガ大賞2020を受賞したこの作品は、主人公がとことん追い詰められる。自分は何を描くのか、なぜ絵を描くのか・・・。
そこで這い上がれないような人には興味がない。
でも、なぜ魅力を感じるのかわかっていなかったのだけど、どうやら、そこにその人のカッコよさが最も現れると思っているからではないかと思った。
これ以上ないところまで追い詰められてこそ、その跳ね返りに、その人のカッコよさを見ることができる、そう思っているからだ。
思えば、俺はカッコいいことや大人への憧れがあった。
カッコいい大人になりたかった。
顔は二枚目ではないことは百も承知しているけど、カッコいい佇まいはあると思うし、行動や言動のカッコよさもある。
最近、ジムに通うようになったのも、以前からのカッコいい身体を作ることを叶えるためだ。
或世イヌを推したいと思ったのも、それが絡んでいると思うが、その話は別稿で書くとして。
実は、最近、友達から、お前はロールモデルが不在だったと言われて、なるほどと思った。
身近な人であれ、有名人であれ、手本となる人物がいるかどうかは大きかったかもしれない。
イメージの集合としてのカッコいい大人はあっても、具体的な誰かというのは、ほとんどいなかった。
その人がいるのだから、という形で自分を励ますこともできれば、どこまでぶっ飛べるのか、形を学ぶこともできる。
自分の中である程度方向性はあったけれど、どこか浮ついていて、ボーダーラインが読めなかった。
やりすぎになるんじゃないかと怖れてもいた。
それをカバーでき得るのがロールモデルだったと思う。
そうした人がいなくても、支えてくれる人や理解してくれる人がいれば、全く違うし、独力でやり遂げられる人もいるだろう。
でも、自分は、それでいいんだと、心底は思えていなかった。
「わかる」のは、実は、予言に近い。
突然、何かがこうなるということがわかる。
身近な例では、目の前を歩いている人が、この店に入るな、とか、左に曲がるな、みたいなことであったり、何回か書いている、おいしい店がわかる、ということであったりする。
根拠も何もない。
いや、当たっている以上は、正確にはあるのだろうけれど、パターン認識だとは思っているが、言語化することはできない。
それに素直になれなかったのは、わかってしまったらつまらないとどこかで思っていたからではないかということ。
そうなると思うと同時に、そうならないとは思えなかったけど、そうなって欲しくないとも思っていた。
的中ばかりしていたら傲慢になるんじゃという話も書いたように、それはそれであったと思う。
でも、根っこにあったのは、未来がわかるのはつまらないと思ったからじゃなかったのか。
というのも、今日、そんなことを考えていた時に、小学生低学年か幼稚園のころ、ゲーセンでメダルゲームをしていた時のことを想いだした。
すっかり忘れていた記憶。
詳しくは忘れたが、メダルを投入してメダルを獲得するゲームで、その時の自分はどうやったらメダルを増やせるのかわかって、無限に増やせることに気づき、でも、そこに来ることはあまりないから、最後はわざと適当にやって、メダルを全部消化させたことだ。
その時、わかったらつまらないと思った。
それを無意識に引き摺っていたんじゃないかと。
だけど、「わかる」から楽しいし、上にいける。
「わかる」ことは不可欠な要素だ。
あるせくんが、Apexの世界レベルの人をコーチに持ってきて、その人の話やプレイを見ていると、詳しくない自分が見ても、レベルが違う。
自分も、ロールモデルがいなかったとしても、「カッコいい大人」は、自分が戦う場所のトップができていることをクリアしてなんぼだったはずだった。
「それでいいんだよ」って、その一言だけでいい、そうどれだけ言ってほしかったことか。
ずっと思っていた。
「わかる」ことは、とても幸運な資格を授かっているのだと。
最近、本来なら、ここでこうしたかったのに、今の自分の状況でそれをできないと思ったことが何回かあって、それは、ここまでの自分の責任に他ならないのだけど、でも、「わかる」ことを活かし切ってこなかったことの結果なのだ。
「カッコいい大人」が自分の問題なら、それは解決する。
それに、もっと「わかる」ようになれるとも思ってる。
だから、思いっきりできるようになればいい。
もう終わりにする。
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「居るのはつらいよ」という本で、「ただ、いる、だけ」ことの価値と難しさが論じられていた。ケアとセラピーの話で、ケアはただいること、環境の変化を中心におくことに対して、セラピーは自己の変革を迫るものだと。
そして、セラピーの方が目に見えやすいもので、ケアは徐々に行き場を失くしているのではないか、けれど、アジールとしてのケアは、不可欠だ、そういう話だった。
著者の言うように、本来はケアが先で、場所を確保してから、セラピーへ移ることがいいのだろう。
だけど、俺は、ケアの大切さはわかっていたけど、場所が見つからなくて、セラピーを先にした。
自分で自分の傷を探し出し、抉り出して、治すことを選んだ。
ただいるだけの場所、アジールは持っていなかったと思っていた。
でも、それは論理的であろうとすること、という枠組みの中に存在していた。
論理的なら、少なくともその正しさは担保される、そういう安全性の中に確保しようとしていた。
もちろん、全てが論理的なことはありえないから、その枠組みから外れること、つまり、素直になることに対して、そうならないとは思えないけど、そうなって欲しくないと思ったのは、論理の外側に出なければならなかったからじゃないか。
そうやって、自分の居場所を確保しようとしていたんじゃなかったのか。
そのことにやっと思い至る。
「独りの一歩を踏み出す決意ができた時、揺るぎない愛情を自覚する」
それは、愛する誰かに対しての情なのだと、ずっと思っていた。
でも、それは、自分に対しての愛情のことを指していたんじゃないか、自分の道を歩みだす覚悟ができたとき、自分を愛せるようになることを言っていたんじゃないか。
愛情は論理の対極に位置する。
人一人の道は、みな違っていて、自分のことは、どれだけ言葉を尽くしても語りきることができない、感覚も論理の外側にいて、「自分」という存在は、論理じゃない。
論理じゃないから愛せる。
そもそも、「大人」は独りの一歩を歩み続けている存在だ。
「愛よりなされることは、善悪の彼岸に位置する」
もう論理を担保にしなくても、感覚の世界の住民でいい。
それが自分の独りの歩みなのだから。
自分を愛せるようになるのだから。