龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

自分が思ったこと、考えたことを書き記すことによって、自己を見つめ直す機会を作ろうと思って立ち上げました。

 それは時間が経つにつれ、自分が何を考え、どう思っているのかを記すことで、日常的に話すことは難しい直接の知り合いと自分との距離を少しでも広げないための一つの手段としても機能することに気づき、この場に書き綴ったものを通して、自分が何を考え、思っているのかというフィルターを通して、自分と直接の知り合いであり続けるに値するのかを問われる場としても位置づけるようになりました。

 自分というある個人がどんなことを考えていて、また、訪れてくださる方がここによってどんな変化を遂げるようになるか、それこそが意味あることであって、自分が何処に住む何者であるのかという問いかけはほとんど意味を持ちません。そういう人間が地球にいるということで充分だと思っています。

 ところで、人は常に新しい何か、今にはない変化を求める一方で、今あるものを失いたくはないという保守性も持ち合わせています。今のままで充分という現状維持を望む中でも、それが例え新しいデザインになったペットボトルであれ、近所にオープンしたコンビニですら、軽い驚きと共に、これまでの日常にはなかった新鮮な気分を抱き、日が経つにつれて日常の風景として違和感なく溶け込んでいきます。

 大多数の場合において、周囲に同化していくことはおかしなことではありません。人もまた生まれた瞬間から、幼年、青年、壮年、老年と否が応でも変化しています。その意味で変化は日常的にどこにでも存在しているのであり、その変化をどこかで疎ましく思う一方で、やむなきにせよ、その変化はあるべきものとして受け止め、ゆえに、本来、それと同じように、日々の小さな変化、時として起こる大きな変容ですらも徐々に受け入れていく許容性を持っています。

 他方、自分にとって欠かせないと思っている何かが無くなることには怖れを抱きます。それは、日常の崩壊を意味することもあれば、よりよくしたいという感情に反するからということもあります。歴史を紐解けば、あまりに怖れるあまりに劇的な反動へと結びつく可能性があることは瞭然です。

 変化と保持、矛盾する二つの概念は、人に限らず自然、あるいは地球そのものが、例えその速度がどれほどゆっくりにせよ変わっていることからもわかるように、元を辿っていけば、変化し続けることへの怖れとして保持という概念が生じたのではないかと思っています。

 けれど、今は自然の変化よりも人がいる周囲の環境の変化速度の方が圧倒的になりました。それがいいことなのかそうでないのかの審判を下すのは未来になるのでしょうが、自分を含め、人が変わり続けるものであることは疑いようがありません。

 そして、形あるものはいつか壊れるとの言葉のように、緩やかな崩壊へ向かって変化していきます。とはいえ、その崩壊は必ずしも忌避すべきものということではなく、千年以上の時を経たからこその風合いと荘厳さを放っている法隆寺の五重塔や七千年という時間を生きてきた圧倒的な迫力と凄みを持つ縄文杉は、今完成したばかりの眩い建築や昭和に再建された薬師寺の西塔より遥かに終焉に近いにも関わらず多くの人を惹き付けています。

 ならば、どう変化するのかということが、最も問われるのではないでしょうか。

 出会いのためには膨大な過去を必要とするとは、何かの本で読んだ言葉なのですが、一つの巡り合わせを実感することは、それ以前の何かしらの経験が積み重なって初めて成立するものです。そのときまでに経てきた数々の出来事が、それを出会いとして受け止め、そこからの関係を育み、新たな成長を可能にしてくれます。

 今この瞬間が、次の瞬間には過去になることによって経験となり、いつともしれない出会いにつながっていきます。出会いを出会いとして捉えることができるかは、そのときまでの過去にかかっているのです。

 ゆえに、現在という時間を軽んずることなく、先を見ようと思っています。未来もまた、現在から延びる道の彼方にあるのですから、今を形作る記憶という過去だけが大切なのでもなく、この瞬間という現在だけを見るのでもなく、これからを考える未来だけを見つめるのでもなく、記憶という過去と、その積み重ねの現在と、その行き先である未来という三つを一つとして、人生という道のりを、変化という道を歩むことを選択しています。

 つまり、三つ目の位置付けは、決して長いとはいえない人生において、自然な佇まいでその花を大きく咲かせることを目指して、遥かな行く先を見つめながら、自分とここを訪れて下さる方双方が変化と成長をし続ける場なのです。

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