龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

点と線を繋げた先に

「根拠のない自信とは、おそらく自分は他人から肯定的にみられているだろうというイメージのこと」

オードリーの若林正恭は本にそう書いていた。

そうだとしたら、俺が根拠のない自信を持っていると思いながらも同時に持てていなかった理由は明らかだ。
他人から肯定的に見られているだろうと思えてこなかったからだ。

自分の記憶には全く残っていないのだが、3歳頃か、祖母と二人でバスに乗ろうとして間違ったバスに乗りかけたことがあったらしい。
それで、乗るべきバスの運転手に、これはXXに行きますか?みたいなことを俺が聞いたらしいのだ。

その話を祖母はことあるごとに話していたのだけれど、聞くたびにどこか居た堪れない気持ちになっていた。
自分の記憶にないことを話されても反応しようがないという感情はなかった。

そんな自分が成長して大きくなったことを、どこか面白がるような口調で話すのが嫌だった。

子ども心を踏みにじられているようで、毎回傷ついていた。

自分が他者からどう見られているかという観点で、一番印象に残っているエピソードがそれで、全体的に自分が他者から変わった人と親や周囲の人から思われていたと受け止めていた。


今では自分のことを変わり者だと自認しようが大っぴらに言おうが構わないし、どうとも思わなくなったけれど、かつてはそうじゃなかった。

「自分は他人から肯定的にみられているだろうというイメージ」を子ども心に、インナーチャイルドが持っていたかというならば、違った。


幼稚園からずっとやりたいことが見つからなかったことにも多少は影響していると思った。

主人公、主役。そんな存在に自分は似つかわしくないと思っていた。
参謀とかいいんじゃないって少年時代思ってた。

注目されるのも嫌だったからだ。あることないこと言われたり思われたりめんどくさいって。

何かをやるにしてもコンサルとかアドバイザーのような、自分が主体にならない、実行者になろうと思わないことや、傍観者というか観察者の立場を取りたがることは、まさしくこれが要因なのだろう。


あと、平均や中央値からかけ離れていることを見つけ、なぜそうなっているのかの理由を知ることが好きだったりする。

根拠のない自信は、自分の内側に確たるものとしてある。
でも、自分は他人から肯定的にみられているとは思えていなかったから、自分がやろうと思ったことに自分でブレーキを反射的にかけるようになっていた。

それって変なことじゃないの?間違っていたら(いなくても)みじめな思いをしたり、白い目で見られたりするんじゃない?
そうやって、自分で自分の首を絞めて。

結果的に正しいのに、自分がしようとしたいと思うことは、平均や中央値から離れた、定石や教科書的なことに反することが多かった。

自分がしようと思ったことが、定石や教科書通りのことであれば、どれだけよかっただろう。

正しいのに、定石や教科書的なことに反してる。
だから、躊躇してた。


他人から肯定的にみられていないと思っていた自分が、「おかしな」正しいことばかりをしたいと思う。

ずっと、賛成してくれなくてもいいから、理解しようとしてほしかった。

俺がおかしくたって構わないから、結果は正しいのだから、理解しようとはしてくれたっていいじゃないか。
それが子どもの俺の願いだった。

あるいは、妙に俺の言うことを聞かなくたっていいのに。
子どもは間違えることだって多いのだから、違うと思うならきちんと論理的に説得してほしかった。


今思えば、そうした自分の気持ちを素直にその場で言えばよかったのかもしれない。

その時は、言っても仕方ないと諦めてしまっていた気がする。


正しいのに、定石や教科書的なことに反してることを、「自分は他人から肯定的にみられているだろうというイメージ」のなかった自分が、根拠のない自信をもってするために。

傍観者というか観察者の立場から実行者になるために。


主人公に、主役になる以外ないんじゃないのか。
自分の主役は自分以外いない。

小説を読めば、いわゆる主人公タイプ以外が主人公になっている作品は山ほどある。
「主人公」にならなくたって、物語の主役は張れるのだ。


それに、俺は存在証明したいのだから、定石や教科書的なことばっかりだったら、存在証明なんてできやしない。

定石や教科書的なこと以外の正しいことだから、存在証明になる。


今回含めて、子ども時代にいい思いをあんましていないみたいな感じのことを何回か書いてるし、実際主観的にはそうなんだけど、俺の原動力の烈しさと意志の強さ、最大かつ最強の能力は、母親から受け継いだものだから、構造分析が好きで割とできるのは多分父親からで、そのことにはどれだけ感謝してもしきれない。

自分が持っているものが生得であったとしても、一人でどこからともなく身に着いたものじゃない。

それをガチャだというのなら、当たりの方だと思う。

それ以外で思いっきりぐちゃぐちゃになっていたけど、シュプールは引き直すことにして、ここまでやってきたから。

もちろん、これまでをなかったことにすることはできない。
引き直したって、真っ新な状態から引いた場合と同じになることはもはやない。

それらもひっくるめての今とこれから。

ようやく、主体になって、実行する。


どうして、今、これを書いたかというと、今自分が最も言いたくないと思ったことだから。
自分の問題、課題は、一番向き合いたくないこと、見たくないこと。

それをさらけ出すことで次に進める。


「おそらく自分は他人から肯定的にみられているだろうというイメージ」は、いまだにない。
だけど、今の自分を話しても受け止めて貰える機会が増えた。

「根拠のない自信」は、根拠のある自信。

肯定的に見られなくたって、それでも自分がしたいと思うことがあって、それをしない自分は自分じゃない。
存在証明し続けることで、後からついてくるものだ。


自分を愛することの意味が、朧気ながら実感できてきた。

俺のインナーチャイルド、前を向いてくれただろうか?


天才でもない自分がどれほどのことができるのか、自分で見てみたい。
本当の根っこはそこなんだと思う。

だから、存在証明。

いろんなことは、振り返ってみれば繋がっている。
ジョブスが言ったように。