龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

新雪の丘から見る「私」の世界

明けましておめでとうございます。

 

去年は、始まりにあたってと題した挨拶を書いたのですが、始まりにはなりませんでした。
残念で悔しいけれど、それを認めるところから。

理由は単純で、見通しが甘かった、それ以上もそれ以下もない。

それはそうなのだけど、出口が見えていても、そこまでどのくらいかかるものなのかは、全くわからない、というのが正直な感覚だった。
一気に距離が縮まるのか、なかなか進まないのか、むしろ、それがわかっていたのであれば、遥かに楽だっただろう。

それは、未来がわかっている、ということなのだから。

プロジェクトとして、これまでの経験や蓄積をもとに、必要な人月がある程度計算できるような代物ではなかった。

今の調子でやっていけば、今年中にはこうなると確信をもって言えます。
そんなもんじゃなかった。

その結果が、十年単位の歳月じゃないかと責められるのなら、その通りだし、道中に何が待ち構えているのかすら、わかっていなかった。

自分のことだけど、未知の洞窟を探検してるようなものだった。

答えはいつだって、過去にあるということは、わかっているのに、それが今にどう結びついていたのかを、一つ一つ紐解いていきながら、ほぐしていく。

絡まった糸を整理する。


12月に見ていたYoutubeで、精神科医の方が取り上げていた話の中に、「新雪の丘」という用語がありました。

雪が積もった、真っ白な丘の上をソリが通ると、シュプールができる。
シュプールと同じようなところを次のソリも通るゆえに、どんどん溝が深くなり、そこばかり通るようになる。

生まれたばかりの赤ちゃんは、そうやって行動や思考や習慣が形成されていくのだと。

もし、その通り方が、一般的に見て、相応しくないものであったとしても、くっきりとしたシュプールに沿って進む方が楽で慣れているから、変えることはなかなか難しいのだと。


素直になりたいと言い続けてきた自分の軌跡は、まさにこれに当てはまると思いました。

こうした方がいい、こうしたいのだと思っていても、過去に作られた通り道の方に引っ張られてしまう。

ましてや、咄嗟の瞬間には、猶更過去のシュプールを、条件反射的に選ぼうとしてしまうだろうと。

それをひっくり返し、新たなシュプールを作ること。

そのためには、いくつものシュプールが出来上がっている新雪だった丘を、新雪に、いや、新雪ではなくても、まっさらに均しなおしてから、改めて、自分がこうしたいと思うシュプールを作り出す必要があったのだ、これまで自分がしてきたことは、そういうことだったのだと思います。

だから、「くっきりとしたシュプール」が、どのように形成されたのか、なぜダメなのか、どうダメなのか、どう均すのか、自分が心の底から納得のいく説明が必要で、そのうえで、新たなシュプールの溝が深くなるように、繰り返し修練する。

それを多くのシュプールで同じように繰り返す。

それらは時に交差し、絡み合っているのだから、その絡み合いも解す。


過去の自分が経験してきた、嫌な思い出を、記憶を掘り起こし、認め、受け入れる。
そうすることでしか、均すことはできない。

こんなこと、他者に勧めたいとは全く思わない。

自分にはそれが不可欠だったから。素直になれるという確信だけはずっとあったから。


最近思ったのは、ノリの軽さが一つの要素として必要だということです。

まじめだけで進んでいくと、煮詰まってしまって、おどろしくなってしまう。
柔軟さと言い換えてもいい。

そして、前少し書いた、相反することの両立です。

執着することは不可欠だが、同時にスッパリ諦める/切り捨てることも必要。
真逆に方針転換することも、全く異なることを始めることも大切。

状況に応じた臨機応変さと、何が何でも成し遂げる執着/意志の強さ。

どうやら、ナンパの心がけと共通するようなのです(しませんよw)。

別に驚くことではないでしょう?

気になる人を口説くという、人類どころか生物の歴史の分だけ積み重なってきた行動の核心が、成果を出すための要素と共通していない方がおかしいとすら言える。


でもね。
それは、どこまで再現可能なのでしょうか。

年の瀬に会った友人と話していた時に、そうした能力/才能を完全に再現することはなかなかないし、理解することすらできないことの方が多いと言われました。

僕は、自分が素直になるに際して、わかったことの根拠や理由を全く説明できないことに、かなり引け目があった。
もし、間違えたときに、どうしてこうしたのか?と問われた際に、どんな言い訳すらもすることができないことを、していいのだろうかと、どこかで思っていたからだ。

それは自意識過剰の産物に過ぎなかった。

ナンパで話を続けるのは性に合わないので笑、営業のエースを例にとろう。

なぜそんなに営業が上手いのか、質問すれば、説明してくれるだろうし、納得できることもあるだろう。
だからと言って、仮に練習をしたとしても、同じだけの結果を残せるのなら、誰も苦労はしていない。

どれだけ説明されたとしても、理解できたとしても、何か説明でき(て)ないことがあるから、その人は営業のエースなのだ。

人の脳は化学反応の産物だとするなら、その人のシュプールを全て解き明かせば、解明できるのかもしれないが、そうしている間に人生そのものが終わってしまいそうだ。

大谷翔平藤井聡太を再現できる人は(まず間違いなく)存在しない。
こんな練習をしました、勉強をしましたと、どれだけ本人から説明されても。

だから、僕がこうだと選択し行動したことの根拠を全く説明できないとしても、その方がむしろ自然なのだ。
自分のコピーの作り方は、クローン以外にはないだろう。

こうやって、一つ一つシュプールを見つけては均し、新しいシュプールを作ってきた。
自分の考え方、価値観、行動のくせを見つけて、納得のいく説明を見つけて、過去の経験と今を結び、変えてきた。


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「自分を心から大切にし、自分に合った人生を謳歌する」

ちきりんは、こんなことを書いていました。

「私も『悲しくてつらくて眠れない日も無かったけれど、嬉しくて楽しくて眠れない日も存在しないような人生は、送りたくない』って思いました。
上にも下にも、思いっきり感情を大きく動かされる人生を選びたい。波瀾万丈こそ人生の醍醐味、生きてる意味だと思えました。」

自分に合った人生。

それこそ、人それぞれ。

だから、何が自分に合っているのか、それを見極めるための経験をし、「波瀾万丈こそ人生の醍醐味」なのか、自分なりの道を見つけ出すことが、人生を楽しむために不可欠で、自分を心から大切にしている裏返しなのだと思います。


僕の場合は、「自分に合った人生」とは、何なのでしょうか。

素直になれていなかったこれまでの自分は、「自分を心から大切にし」ていたとは、残念ながら言えません。

でも、ずっと前から、思っていたことが一つあります。

これまたかつて書いたことではあるけれど、「カッコいい大人」です。

もちろん、カッコいいの定義すら、人それぞれであることは承知しています。

僕の思っていたカッコいい大人は、こんな風になりたいと子どもが思う大人でした。
当時、具体的に誰というよりかは、映画だったり史実だったりから知ったことの総体としてのイメージだったけど、今だって曖昧な言い方しかできないけど、この先いくつになったとしても、10代20代の若者のうち、幾許かが、こんな人になりたいと思ってもらえるような存在です。

そのために、想像力が不可欠なことはわかってる。

「相手の世界から何が見えているのか・見えていないのかを理解する想像力がもっと欲しい。
 単純に、多様な価値観を持つことが出来るようになればもっと楽しく生きられると思う」古賀洋吉

想像し、寄り添うこと。

「みんなが仲良くしなきゃいけないとは思わない。嫌いな奴は嫌いでいい。むかつく奴もいる。でも、そこにいることをお互いに許し合えればいいんだって思う」テイルズ・オブ・シンフォニア

生きてる間には実現されない、自分の理想に向かう人を応援する。


「自分を心から大切にし、自分に合った人生を謳歌する」から、楽しくなるのだと思う。

正直、これまで楽しいと思ったことは少ないから。


生きた証を残すよりも、存在証明がしたいんだって前に書いた。

そのために、自分を犠牲にすることなく、自分の利益を追求することだ。
そして、それは他者を傷つけることを必ずしも意味しない。

エゴの塊のように見えたって、人はエゴイストにならなければ、何かを成しえない。きっと。

その是非は誰かが勝手に判断するだろう。

でも、僕は、自分を犠牲にすることなく、自分の利益を追求しながらも、意図的には他者を傷つけることなく、人生を楽しんでいる、自分に合った人生を謳歌していると思う友人がいる。

実例をこの目で確認している。存在証明し続けてる人が身近にいる。

その事実に気づけたことは、僕の大いなる励みになった。
その事実に気づいていなかった自分は、本当に未熟だった。


理解できないことこそ、理解されない事こそ本望。
説明できないことが、それが、「私」を「私」たらしめる。

だから、存在証明できる。


こんな人になりたいと思ってもらえるような存在というのは、言い換えれば、希望を与えられる存在じゃないのか。
これはと思う人を支援したいということだって、きっとそこに含まれる。

人は、希望があるから生きていける、というのなら、それがどれだけ烏滸がましい言い方だとしても、希望を与えられる存在になることができたのなら、存在証明できたなと思うのかもしれない。

営業のエースだって、大谷翔平だって、理解できない、説明でき(て)ないことが、それゆえに「希望」に繋がってる。

そして、それを続けることができたなら。
そんな生き方をすることが、カッコいい大人で、なりたかった自分で、自分に合った人生を謳歌すること。

そのバトンを引き継いでいくこと。

それが、新雪の丘から見る「私」の世界。

「自分の心のまま正しいと思う道を進」み、後は、引き継ぐ者を「信じ」、「俺の責務を全うする」。

楽しい人生を送る。

今年もよろしくお願いします。