龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

思いは青空の彼方に

大昔に書いた文章。
残しておきたいと思ったから再掲。

 

 「ハッピーエンドは失われた。」

 ハッピーエンドとは誰にとっての言葉なのだろうか。

 僕が今までにプレイした市販のゲームは10本そこそこ。遊ばない小学生や中学生だったということでもなく、小学生のときから今日に至るまで中座なくしている(と思う)。フリーゲームと呼ばれる主にRPGツクールをベースとしたオンラインで公開されている個人またはグループ製作のものまで含めればもう少し上乗せされる。

 ゲームが嫌いなのではなく、好きなゲームが少なかったという方があっている。まあそれは、単純なストーリーややりこみには興味が然程ないこととも関係しているのだろう。

 フリーゲームという文字通り無料でプレイできる、インターネット上で公開されているゲームには、製作した個人あるいは少数のグループの個性というものが、市販のものよりは濃く残されている。全体的に見た場合に、商品として売ることが前提にあるものと、趣味として作られたものではその性格に差が生じるのは致し方ない。

 個人または少数グループの個性と書いたが、そこにはゲームを製作したいと思う人間だけが集うのではない。グラフィック、音楽、マップ、イラストなどゲームに関係のあるジャンルの素材を趣味として公開している人々も多い。製作者を中心として素材、テストプレイなど様々な人々の上にフリーゲーム(時として1000円ほどのシェアウェア)は成りたっている。

 さて、そんなフリーゲームの中で一際異彩を放っているものがいくつかある。何回目でもコーヒーをディスプレイに吹きかけずにはいられない面白い作品、丁寧に作りこまれた良質の作品を発表し続けるサイト、一・二作で幕を下ろしながらも「古典」となりつつある作品などである。

 そんな中から、まだ後半に差し掛かったところで、クリアはしていないが、ある一つのゲームを紹介しようと思う。プレイするには、ランタイムパッケージという無料ソフトが必要になる。

 だいぶ昔にさらっと書いたことのある「STARDUST BLUE」を製作した方が、製作時からこれを最終作としてサイトを閉鎖すると公言していた。そしてその通り、閉鎖されたサイトに今なお、アクセスが絶えない。そして、その理由はサイトで公開されている分厚い――オンラインにあるものには相応しくない言葉かもしれないが、マニュアルを読むだけでもわかる。ゲームで構築されているシステムには目を見張る。

 その作品のタイトルは――「Seraphic Blue」――


 衝撃的な内容の重みと厚さを残した前作「STARDUST BLUE」の製作者とあって、公開前から期待していた作品。だが、その前作すら軽く上回る内容でもって、更に圧倒させて見せた。

 どうすれば未来が開けるのかという日常の視点からは離れた投げかけを突きつけられる。

 人は何に対してこれでもかと絶望を味わうのか。人は何に対して怜悧な残酷さと冷酷さを感じるのか。人がこれでもかと己の無力さを思うのはどんな時か。

 その答えは、この作品をプレイすれば自ずとわかる、と言えるほどに作りこまれている。自分がそこに立っているかのような錯覚と共に、まさに抜き差しならない情動によって、心の最も奥の隅まで躊躇なく貫かれた。

 そしてそれを計算しつくし、やってのけた“ゲーム”。それほどまでに強烈なえげつなさを描ききった、その演出の巧みさはどこから生まれたのだろうと唸るほど、練り込まれた構成。もし、そこから見出される希望というものがあるならば、何に対してなのか。

 個人製作によるフリーゲームながら標準プレイ時間は60時間以上、戦闘の難易度は戦略なくして勝てる市販物とは比較にならない。

 本来、戦闘には戦略が不可欠である。同じパーティーであろうとも、どのような装備で誰をどのように戦わせるかを考えなければ勝つことはできない。フィールドで遭遇する敵であろうとも、一つでも手を抜けば、麻痺、能力低下、混乱と容赦なく不利状態に陥り、すぐさま全滅する。すでに、これほどまでに全滅を味わうこともないくらい全滅を繰り返した。

 「敵は決して"邪魔者"ではなく"敵"として此方を潰しに掛かり、従ってバトルも"こなす"などと気楽な事の言えない、まさに戦って勝利を掴み取る物」

 それに相応しいだけの半リアルタイムシステムが構築されており、水、天などの属性を上手に扱い、素早さを高めるような手段を活用せずに、次への一歩は踏み出せない。行動順をパスすることや防御することが勝敗の境目になる。他ならば雑魚と呼ばれる相手でも歯ごたえのある頭脳戦を味わえる。

 闇雲なダメージを与えるよりも地味な妨害を。とはマニュアルにある言葉だが、ごり押しでは勝てないようになっているのが面白い。経験値は戦闘の参加の有無や生き残っているかどうかに関係なく配分されるため、生き残るのが一人でも構わないから戦闘に勝利する戦略を考える。それでも勝つことは容易ではない。だからこそ、先へ進むために考える充実感がある。

 様々な意味で15歳未満非推奨。人間の負と戦争という現実と、登場人物が生物を殺しながら嬉々とした声をあげる台詞を受け止められるなら。

 ゲームの主人公は清く正しく真っ直ぐな人物だとは限らない。プレイヤーサイドが常に善で対峙する側が悪だともいえないだろう。悩み、迷い、時に暴力を伴い、荒み、それでも強い意志と目標の姿のために、登場人物という列車は止まることなく動き続ける。生きていること自体に苦痛を覚える選択肢という避けようのない慟哭の上に今日という現実は美しく煌く。

 「生きるための術は多様性がある。
  その多様性に悪や正義を付随させることは、
  或る意味で不毛、或いは諍いすら招く行為だ。」

 「君は優しすぎる。それが不幸にも人を腐らせ、
  引き換えに君自身をも壊している。
  もっと利己的に成りなさい。もっと声を上げなさい。
  君の思う自らの幸せを、他人に見える形で描いてみなさい。」

 「今この時、その行いに嘘偽りが在ったとしても、
  それが明日への糧に成らないとは言い切れまい?」

 「迸る胎動と戦慄の残響」

 「じゃあ何だ?あんたには未来が無いのか?」

 四方を崖に囲まれた場所に立たされ、何をすることもできず、突き落とされんとするとき、人は何をし、何を叫ぶだろうか。

 さあ、天使の羽ばたきから零れ落ちる絶望という名の羽根に優しく包まれよう。天使の救済とは斯くあるものなのか。幸福とはどれほど儚いものなのか。それでも、人はなぜ存在するのか。

 天使は空の楽園に住まい、悪魔は地獄の底で待ち構えているという“神話”。だが、事実は、天使は地獄の底で無表情に佇み、悪魔は天空の地に天使の顔で穏やかに微笑むことよりも苦いかもしれない。

 もし、その絶望と無力さと残酷さに、鋭くあるいは鈍い痛みを感じたなら。それに向き合おうとする作中の台詞はどこまでもしなやかで靭く、そして、優しい。

 ありとあらゆる光と闇を飲み込む昏き澱みの底からも明日への原動力は生まれてくる。明るく希望に満ちた爽やかな未来もいいけれど、人という生き物が抱えるやるせなさと行き詰まりを見据えた先にも等しく陽は昇る。それは決して幸せなものではないかもしれないが、かといって過去へ戻りたいと願うものでもないはずだ。

 たまにはそんな「ゲーム」をしてみてはどうだろう。気安く楽しく遊べるものだけがゲームでもない。RPGというゲームなんて薄っぺらくてつまらないと思っている人や、人間という重層な飛沫を味わいたい人に。

 まずはマニュアルを読んでから、オープニングを見て、何か違う空気を感じたなら、きっと長時間をかけるだけのものがあると思います。

 Seraphic Blue――その蒼き空の彼方に待つのはどのような結末だろうか。