23歳で白血病で余命宣告を受けた人のブログとnoteが目に留まって、ひとまず最新のところを読んだ。
https://note.com/yuya__yamaguchi
https://twitter.com/Yuya__Yamaguchi
可能性の低い骨髄移植に挑む(3回目らしく)と書いてあった。
京大を今春卒業し、文章を読む限りは、考えに考えて考えたのだろうと思ったし、イケメンな感じだった。
人は平等でもなければ、公平でもない。運や不運という言葉で片付けられないこともたくさんある。
幼い子供が重い病気になり苦しみ、時に死ぬのはどんな罪を背負ったからというのか?
宗教の言う前世があったとしたって、それを今世で清算しなければならない定めは論理的ではない。
人は平等や公平を目指して、歴史を紡いできているけれど、根本の不条理さは消えることがない。
彼がどれだけ苦しい思いをして、どれだけ考えたところで、原因は出てこない。
もちろん、将来、白血病になる要因と対策が見つかることはありえるとしても、それは、今の当人の救いにはならない。
そして、それが自分ではなかったことに安心したり、目を背けようとしたりしても、現実は変わらない。
なのに。
ひどい考えだと思うけれど、考えに考えたから、伝えられることがある。
優しい人は、人の痛みがわかるから。
修羅場を経験した人の言葉に重みがあるように。
死を前に、飾りは意味を持たない。
今日が人生最後の一日だったらと、ジョブスは言ったように、その時、自分以外の誰かは何の意味もない。
お前がどうしたいんだ?
そのむき出しの考えが、真実で、人を揺るがせる何か。
もちろん、真逆の天真爛漫な人もそれはそれでいいんだよ。
誰しもが、そんな、今日が人生最後の一日だったらという気構えで過ごすことはない。
それは、そう思わざるを得なかった人だけでいいと思う。
もう自分が消滅するのなら、それも、若くしてだったら、誰かに何かを残すことが、できることの一つなのではないかと、だから、思いの限りをつづって、考えて、伝える。
誰かに自分がいたことによる影響を与えることができる。
それもレゾンデートル。
だとしたら、そういう人の前で。
自分が誰かの何かを気にして、自分のしたいと思うことをしないことが、どれだけ情けないことなのか。
笑われても、蔑まれても、明日は死ぬ身なのなら、自分がしたいことを何より優先させるでしょう?
それが最後の機会なのだから。
自意識がなければ、自分を感じられないのかもしれないが、自意識が邪魔をした。
ここまで書いた後に、noteの有料部分を読んだ。
勿論、内容は書かないけれど、
「他人の心を動かす文章を書くには、自分自身の心がそれ以上に揺れ動かされている状態でないとかけない」
という一節が心に残った。
文章の主題や内容とはあまり関係のないことだけれど、そう書ける聡明さは、文章から伝わってくるし、
だからこそ、感じる何かがあると思う。
言語化することは、考えて考えて考えた末の文章であることがわかるほど、考え尽くしたことを想像できた。
結果が何より大切で、その次が過程。
過程が理解されることなどないと「自分」が思うのに、同時に「自分」を理解してほしいと思ってしまうのは、我ながらひどいと思う。
だけど。
宣告を受けて、考えて、考えて、決めざるを得なかった彼の前で。
理解してほしいというのは、期待だ。
期待をすることはろくなことがないと前に書いたように。
だから、理解されることがないと思うのなら、それ以上は望まない。
その楔を断ち切って、自分の轍を歩む。
「あなたを特別にするものは、必然的にあなたを孤独にもするはずだ」ロレイン・ハンズベリー
希望は持っても、期待はするものではない。
力への意志で進んでいく。
1週間ほど前に知ったばかりだけど、とても大きな何かを貰えたことに感謝して。