龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

「イメージ」としての「自分」/「大人」の生き方

明けましておめでとうございます。

中学生で親を代表取締役にする形で起業した加藤路瑛は、こんなことをツイートしていた。

ある天才中学生に「小さい頃から人とは違うと思ってた。なんでみんなと同じ事をしなければならないのか。みんなロボットに見える。この苦しさをどうやって対処しているのか?」と言われ、自分は「みんな得意な事も好きな事も違うのに、どうして、みんなで同じ事をするのだろう」と思っていたと。

感慨深い話だったので、自分はどうだったのか思い返してみた。

すると、こうなった。

「小さい頃から人とは違うと思ってた。なんで、その違いを、周りは認めて/受け入れてくれないんだろう。けれど、どこかに、自分と同じような人は必ずいる。だから、その人を探し、いつか見つけられたときに、相手にそれと必ずわかりあえるようになろう。」だった。

自分事ながら悲しく切ない...笑

けれども、出発地点はここだと思った。
いつのことだったのかも思い出せない遥か昔のお話。

何年も書いていた内容は同じだった。素直になりたい、思ったことを思ったままにやりたい、それだけだ、と。
そのはじまりから、どのように思い考え、なぜ長い長い時間を必要としたのか。

このお話は今回で最後。
そうであることが伝わるようにも書こうと思う。

となれば、去年も使ったこの言葉は不可欠。
一つの標になってくれた、何回読んだかわからない語句を。

「人の顔を伺って楽しむなんて本当の楽しさじゃない。
自分に嘘をつかない事それが本当の自分
他人がどうじゃなく自分がこうやりたいって思う事が一番大事
自分に素直に生きなよ自分を信じろよ」

そうわかることとできることは全く別物。
どうやったらその差を埋められる?練習?どのような?


やりたいことをずっと探し続け、見つけようとしてきた。
やりたいことはあるべきもので、見つかるものだと思っていた。
だから、逆さになっても絞り出したと思っていた。

けれど。そんなもの、なくたってよかったのだと思う。
ないのなら、ないと堂々としていてよかった。
自分がしたいと思うことを存分にしてよかった。
人は人。自分は自分。

それを回り道と呼ぶこともできれば、道は一本だったということもできれば。

ずっと誰かに認めて、受け入れてほしかった。
だけど、誰でもいいということでもなかった。
自分のことをわかってほしかった。


「あなたを特別にするものは、必然的にあなたを孤独にもするはずだ」ロレイン・ハンズベリー

まふまふは、かつて自分の周囲で音楽をやっていた人間で、今もしているのは自分だけだと語っていた。

どんなジャンル、物事でも、ひとたび人気が出そうとなれば、どこからともなく、それを目指す人間が現れる。

オンラインノベル、eスポーツ、youtuber。
それを目指していなかったら、何をやっていたのだろう。
代わりに、どこかのジャンルの競争が緩くなったようには思えないほど、人はどこからか現れ、注目ジャンルに挑む。

そして、その中で続く人間、生き残る人間は、いつだってごくわずかだ。
人よりも少しでもよいものを、訴えたいことを、したいことを、人が持つ執念が、新しい何かを生み、競争が生まれ、差を作り出す。

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。 そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。」小林一三

特別になることが、他に代えがたい存在になることなのだから、孤独になるのだ。
羨まれるのは、嫉まれるのは、憧れを生むのは、その代えがたさに他ならない。

そして、それが、圧倒的になれば、時に化け物呼ばわりされる。
成功したくて、有名になりたくて、その結果の必然なのに、そうやってあきらめという感情と折り合いをつけ、人という社会は成り立っている。

さて、孤独になるとしても、特別になりたいのか?

自分の場合には、孤独になるのか、とか、特別になりたい、とか、そんなことよりも、自分を突き詰めたい。ただ、ひたすらそれ。
その結果として、孤独になるのか、特別になるのか、どうなろうと、そのときには、誰かがいる。その心からの確信だけでやってきた。


拗ねた書き方をしたけれど、逆さまになった挙句に捻りだしたやりたいことがやりたいことで、それの実現に向けた道を歩んでいることにも変わりはない。

理想の社会は考えだしてあって、それは自分が生きているうちには実現できないことも受けいれていて、それに近づけることをしようとしている人を有形無形に応援するという意味において。

だとしたら、素直でない自分とは何だったのか。

そこで考えたのが、イメージと自分の関係性。
イメージと自分という関係には、ジョハリの窓を借用する形で、次の四つがあると思う。

1,自分がイメージする自分
2,他者がイメージする自分
3,他者はこうイメージしていると思っていると思う自分
4,ありたい自分のイメージ

このとき、これまでは、3と4が突出していて、その差を何とか埋められないのか、もしくは、その差を苦しく思っていた。
そして、1と4の差にも悩まされていた。

以前取り上げた、「今日もちょっぴりかしこくなりました」という言葉は、毎日、自分を見ていることを前提にする。
その日その日の中で、これまでと比べて、何かしら得られたこと、できたこと、があることを確認する必要があるから。

けれど、3に引きずられていた頃の自分は、他者ばかり見ていて、自分を見ていなかった。
それで、ありたい自分になんてなれること、ありはしないのに、そのことに気づいてすらいなかった。

その結果、何が起こるかといえば、失敗への恐怖である。
「人とは違う」、つまり、自分と他者のニーズが違う中で、違う自分が何かをしたことによって失敗を責められたとするならば、それは偏に人とは違うことを自覚的に行った自分のせいであり、人とは違う自分の居場所がなくなることを意味すると思っていたからに他ならない。

そこに自己肯定感の低さという概念を挿入すれば、それは確かにそうであっても、どう乗り越えるかの、ヒントは与えてくれる。
この辺りを螺旋階段のように同じところをたどりながら登って行った痕跡が、毎年の正月の文章だった。

素を出してもいいのかという旅路は、長かった。。
(その過程は先に書いたようにこれまで散々書いたので省略)

そして、今。
4は、自分への戒めとして、日々確認すべき姿として、中身を変えながらでも、持ち続けるものだと思っている。
2と3は、ある程度自分がコントロールできる部分もありつつ、気にしなくてもいい部分でもある。
そして、1は自己認識は大切だけど、なくてもいいんじゃないかと思ってきている。

なぜなら「イメージ」だから。
どこまでいっても、イメージはイメージであり、実像ではない。

去年書いたように、あることに自分と他者が感じることは常に同じではなく、そこには深い谷があり、それを埋めようとすることがコミュニケーションで在り、そのために世界を広げることが必要なのだと思う。

けれども、他者は自分のことを完全には理解できない。
他者がイメージする自分は、これまでの自分と他者の関係性の中で作られた虚像である。

自分がイメージする自分もまた虚像であることは、「本当の自分」が存在しないことからも言えるのではないか。「本当の自分」は、他者に証明することができない。こう思っている、こうしている、そこから、過去と照応して限りなく本当であろうと判断できるだけだ。「自分」という存在は、常に変化し続けるからである。同じ毎日を繰り返しているとしても、厳密な意味での同じ一日はないのだから。また、人はいつの間にか身体が変化しているのだから。

これが本当の自分だと声を上げて叫んだところで、他者はそうなのだろうと判断/信じることにしている。

その意味において、証明できない自分は、得てしていうなら「他者」も「今」という瞬間の存在でしかない。
「今」という瞬間を積み重ねているイメージとしての「自分」がいるだけ。

それだったら、「自分」が「イメージ」で「虚像」だというのなら、どうとでも変化/変身できる。
つまり、「なりたい自分」になることができる。

本当は、人は、「なりたい自分」になることができる。

そこに差があるのなら、引け目があるのなら。
それはたいてい砂の楔だ。終わってしまえばそんなのもあったと思えるような日が来る。

「勝ちたいなら自分自身に対して非情になれ。そしてこれでもかってくらい貪欲になれ」

自分ではやりすぎなんじゃと思っても、相手にはやっと届く程度であるとある本に書いてあったことが印象に残っている。
だから思い切って千尋の谷に飛び込む。

怖かったら怖いほど、そこへ飛び込んでいくんだ/岡本太郎

勿論、その結果は自分が引き受ける。
だから、「自分」という「物語」が作られる。

まふまふが、「人の轍は歩けない」と言った意義もそこにある。
人は、みな、「自分」という「物語」を歩むのなら、人の轍を歩きようがない。

でもね。
それとて「物語」だ。
物語は「おはなし」である。

他者にそれが事実であると証明することはできないし、全てを物語らないこともできる。

論理というものが存在する理由は、人が感情的な生き物だからだと思っている。
感情を常に優先させていたら、世の中はうまくいかないから、というよりは、今日のような社会には到達しなかったであろう。
だから、人は極力、できる限り論理的でなければならない、というのが、自分の信条。

同時に、科学は事実を追い求めてきた。
事実と真実。事実は客観的な事柄で、真実には主観が入り混じる。
「自分」も「真実」の範疇にある存在だと思う。

感情と真実の世界に生きるから、論理と事実を生み出した。
人間は感情と真実の世界の住人だと思っているからこそ、論理と事実を限界まで優先させたいのだ。

矛盾している?
人自体がここまで書いてきたように、矛盾しているし、相反することを両立できる不可思議な存在だ。


「なりたい自分」になって出来上がるのが「自分」という「物語」で、それは事実とニアリーイコールだからこそ、「他者にとっての自分」も、「自分にとっての自分」も「虚像」で「イメージ」だからこそ、いずれも変えることができる。

「変えられる」ことこそ、「希望」に他ならない。

希望があるから、人は生きていけるのだ。

////
まふまふは、「百鬼夜行」という曲の歌詞でこんなことを書いている。

たまには鬱憤を晴らしましょう。
人に疎まれても心の傷は隠してあげるから。
笑いたければ笑えばいい。
忌み嫌われても恨めしいことはない。
君が望む夢はこの世で叶えてあげる。
だから千里の果てまで共に行こう。
怖がることなど何もない。
と。

いじめにあっていたという過去や、歌い手として様々なことを言われたという話と、コロナで中止になったとはいえ、東京ドーム単独公演まで来た彼がしてきたことを照らして思えば、そのやさしさとしなやかさと意志は沁みてくる。

人間における成功とは、夢にどこまで挑めたか、努力できたかで決まる/岡本太郎

成功や失敗という評価は今一瞬のものであり、数分先、数年先は必ず変わる
だからそんな一瞬のことに一喜一憂しなくていのに、多くの人は成功にこだわりがちだ
成功も失敗も存在しない/加藤路瑛

「自分のすべてをさらけだすから、自分の足りない部分が見えてくる」

人は誰しも、なりたい自分になれるという希望を持っている。
賽を投げる覚悟すらいつだってできる。

その結果、生まれるものとて、「物語」という「おはなし」だ。
だとしたら。

「例え周囲が悲しもうが、胸を張って『悪くない人生だった』って言えるなら、それはそれでありだと思う」

だって、自分がどうしたいのか?
ただ、それだけでしょう?

答えなんてない誰も教えてくれない
もしどこかにあるとしたら君はもう手にしてる/浜崎あゆみ

「出来ないと決めつけてるのは自分であって他人じゃあない。行動するのは自分なんです。」

言葉にて語りえることを語り尽くしたとき、言葉にて語りえぬことをしることがあるだろう。/ヴィトゲンシュタイン
////


前半で、人はなりたい自分になれるのであり、その変化できることが希望なのだと書いた。
ちょっと概念的な話で、お前はどうするんだということをあまり出していないので、後半はそちらを中心に。

あまりに唐突だと思うけれど、この文章を書いている当人はナルシストである。
残念だが容姿についてではない。
この店はおいしいとか、この映画はあたりだとか、他の人が書いた感想を読みながら感じた感覚が、実際にその通りであったことを実感することに対する喝采と酔いを自分で味わいたい人間なのである。

それは映画のような趣味の世界に限らず、仕事においても同じく、これはこれが原因でこう解決できると自分が真っ先に対応できることなども変わらない。
それは、鼻持ちならない書き方をすれば、自分の感覚が、またその的中率がいかに優れているかの証明を自分に対してできることにおいてである。
他者と比べてどうとは全く思わない。あくまでも自己完結。
自分で自分スゲーと言いたいイタイ人間なのであるが、これこそが当人の原動力なので、他人からどう思われようとも知ったことではない。

そして、それが常に正しいことを理想であり自明の姿だと思ってきた。
間違えたくなかった。
単純に間違えて怒られるかもしれないことが怖いから、という理由もあったと思うが、自分の何の根拠もない感覚で行っていることが間違っていた時に、他者に対して何の言い逃れもできない逃げ場のなさの方が恐ろしかったからだ。

それゆえに、論理的になろうとした。
相応に納得できるであろう論理を組み立てて、それらしく語っておくことで方便にすればよいと思った。
けれども、そんな仮初でしかない虚構で自らの地盤を固めることができはしない。

同時に、人は完璧になることはできない。
だから、目指す方向が最初から破綻していた。

前半に書いた理想の社会の実現だって、「今」から見た範囲の中で、自分が想像できる限界線の中にあるものでしかない。
美人の概念が歴史の中で変化しているように、子どもという概念は発明されたものと言われているように、将来の変化の中においては、時代遅れになる可能性は十二分にある。

だとしても、ある種の理想の実現は、正義の実現になるのだろうか。

他の文章で、正義なんてものがオワコンではないかと書いた。
なぜかと言えば、@zerozero_dailyの言葉を借りれば、

「殴ると殴り返されるっていうシンプルな問題だ。殴られたくないなら他人を殴るのをやめたほうがいい。殴ってもいい人はもういないんだからさ。
そもそも他人を殴りたいという感覚がまずい。いい意味で雑なヒーロー像じゃないのかと。
何が正義かあんまり厳密にしないし、全然がんばらないし、やれる時だけやって、普段はカフェ巡りしたり、ドローン飛ばして遊んでたり、電車に乗り遅れたりしてる。悪を見つけても、「やめとかはったら?」ぐらいで救うが倒さない」

からだ。
だとしても、教義の異なる大きな宗教がこれだけあり、それは異なる価値観が並立しているし、人の欲望がなくなることはない以上、諍いはなくならない。
正義の代わりに価値観という言葉を持ち出したら、言葉遊びに過ぎないのかもしれないが、価値観という言葉と善悪は別だと思う。

鬼滅の刃で煉獄さんが対峙する相手に向かって繰り返し、
「君と俺とでは価値基準が違う」
と言ったように。

人は、他者は想像を絶するところに、自分も他者からすれば想像を絶するところにいるのだから。
表現しようとしても表現しきれるものではないでしょう?
だから、できる限り想像して、他者とコミュニケートするのだ。

けれども、人は、誰とでもわかりえることもない。
想像して理解できたとしても、同意することができないことは、たぶん永続する。

だから、煉獄さんの思考を借りて言うなら、自分の価値基準を達成するために、それを邪魔するのなら全力で排除する。
できるなら諭すで終わらせたいが、まだそうはならないだろう。
(逆に言えば、邪魔しないのなら同意できなくても何もしない。)

少なくとも、善悪からの正義を持ち出すことはしない。

そして、自らだけでは達成できないのであれば(というか達成できないことが前提という気がしている)、それを引き継ぐ者にバトンを渡し、使命を、つまりは、

「俺は俺の責務を全うする」

ことで、死を迎えるのだ。

多くの人に、煉獄さんがかっこいいと思えたのは、価値基準の達成のために有言実行で最後まで全力で生きたからではないか。
ましてや、「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務」とノブレス・オブリージュ発言もしているので尚のこと。

だから、主人公である炭治郎が「うむ!いい心掛けだ!」と言われて嬉しそうにしていたのは、逃げ行く鬼に向かってあれだけ叫んだのは、生き様を認めていたからだ。
(あの叫びは、あまりにも正論で青くさいけれど、炭治郎の年齢だから説得力があり、煉獄さんにも響く言葉だったと思う)

ということで、がんばっていこうね、というお話ではない。

ある感想を読んだ後で気づいてしまった。

僕たちは、煉獄さんに、「うむ!いい心掛けだ!」と言ってほしいと、どこかで思っているんじゃないかということに。
そうやって認めてもらいたいと願っているんじゃないかということに。

誰かに、できれば自分が認めている人に、認めてほしい。

だけど、それは「子ども」の側の論理だ。

人は、どこかで自分を問う必要があると思う。
これが自分、自分という世界なのだということを。

先日、石岡瑛子の回顧展を見に行った。
資生堂からキャリアをスタートさせ、パルコの広告、角川書店との仕事を経て、アメリカにわたり、グラミー賞アカデミー賞を取った、広告、ファッションデザイナー。
落下の王国」という映画やシルクドソレイユ、オペラ「ニーベルングの指環」などの衣装では、もはや彼女のファッションショーとして成り立っていて、これが私の世界だ!!!!という迫力に慄くほどだった。

その完結した世界の前では、他者は必要ないのかもしれないとすら思った。
それほどまでに、彼女は自分を表現することにトコトン拘り、形にしていた。

みながこれが私の世界だ!!!となる世界線はあるのだろうか?
そのとっかかりが次の話になりそうなのだけど、少しトーンダウンして、認めてもらう側から、少なくとも認め引き継いでいく側になること。

それが「大人」ではないか。

だから、「うむ!いい心掛けだ!」と言う側に回ることが、人の務めの一つなのではなかろうか。

その意味において、無限列車編の時点の炭治郎は「子ども」であり、その目線に同化していいのは、あるいは、「煉獄さんかっこいい」という憧れで終わらせていいのは、同じ「子ども」だけだ。

僕たちは、「大人」であるべきじゃないのか。

「みながこれが私の世界だ!!!」となるには、それも最適解ではないのだろうが、なれるにしても、時間はかかるだろう。
「たたかい」は続く。

「価値基準」を持っているのか?
それが、間違っている可能性も手のひらを返せる覚悟も持っているか?
同時に、決して譲りえないと断言できるほどなのか?

そして、受け継いでくれる誰かに向かって、「うむ!いい心掛けだ!」と全力で言葉をかけられるのか?

当面「たたかい」の終わりは来そうにない。
けれど、それは不幸なことじゃない。

どうなるかわからないことこそ、人が心の奥底でわくわくできることだからだ。

「変えられる」ことこそ、「希望」に他ならない。
希望があるから、人は生きていけるのだ。

それを第一のテーゼとするならば、受け継いでくれる誰かに向かって、「うむ!いい心掛けだ!」と言って、「俺は俺の責務を全う」できることが、もう一つの希望だ。


人は論理的な生き物ではない。
社会もまた論理的にはなっていない。
間違えることもあれば、わからないこともある。

人が完全に論理的になることはないだろうし、社会がそうなることもないだろう。
この先も間違えることは多く、わからないことはあり続けるのだろう。

そして、「自分」は、なぜわかったのかを説明できないのだ。
根拠もなければ説明もできない。

論理的ではなく、間違えることがあって、わからないことはあり続けて、わかってもなぜなのかわからないのなら、拠り所は「自分」にしかない。

拠り所がほしくて、「うむ!いい心掛けだ!」と言って貰えたらと思っていて、煉獄さんとて母という存在がいた。
だけど、最後は自分しかいない。

「答えなんてない 誰も教えてくれない もしどこかにあるとしたら 君はもう手にしてる」浜崎あゆみ

論理的でもなく、間違えることもあって、わからないことはたくさんあって、わかってもなぜなのかわからないのが「自分」なのだ。


だから。最後も煉獄さんを借りれば、

「自分の心のまま正しいと思う道を進」み、後は、引き継ぐ者を「信じ」、「俺の責務を全うする」。

そのために、最善を尽くせるよう研鑽あるのみ。

ヴィトゲンシュタインの「言葉にて語りえることを語り尽くしたとき、言葉にて語りえぬことをしる」を体現したと思う彼のように。

煉獄さん持ち上げすぎたかもしれないw
けど、それが「自分」の生き方なのだ。
(これが私の世界だ!!!というオレ様路線じゃないのかって?笑)

今年もよろしくお願いします。