龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

カラコンから考える自分と他者

武術ができるようになりたいと思っていた。

もし何かあったときに、自分で自分の身を守ることができるという自信が身について、堂々と振舞えるようになるのではないかと思っていたからだ。

だけど、カラコンをしているとき、いつもと違う自分でいれていると思うことに気づいたとき、それが意味することを考えたくなった。

通りすがりに、あれって顔をされることに、ちょっとした快感があって、自分が他者とは違う存在である仄かな優越感を感じられることができる。

もし武術を身に着けていたとしても、それは端から見ても他者からはまずわからない。
自分の内側だけの心のよりどころだ。

また、誰かに怒られたりしているときに、私は~なんだからというネタ的な心の持ち方がバズっていることがあるけれど、それも、同様に他者からはわからない自信の持ち方だ。


カラコンは、他者にわかり、かつ、髪の色やピアスなどよりも、圧倒的に他者があれ?と思う存在である。特に、日本においては、だと思うけれど。

髪の毛を紫やピンクに染めていようが、派手なピアスをしていようが、そういう人もいるよねくらいでさらっと流されることが多いけれど、カラコンは、結構他者が反応する。

コスプレをしてはいないので、ハーフか外国人のようにも見えなくはない。
見た目は日本人なのに、目の色だけが違う、というのは、日本人にとってはかなりの違和感を引き起こすようだ。

以前書いたことがあるように、カラコンは、ワンデイが多く、休みの日だけつけることができ、価格的にも髪を染めることなどに比べれば安価である。

一時、質の悪い製品があったゆえにイメージが悪くなった影響が残っているのかもしれないけど、今は医療機器扱いになっているし、一般的なコンタクトと同じく使い方を守れば同等だ。

つまり、扱いやすく、インパクトが大きいにもかかわらず、都会の若者でも珍しいことが、面白いと思っている。

なぜ、髪の毛やピアスや服装は派手にするのに、目の色だけは変えようと思わないのか?
さらに言えば、タトゥーよりも珍しいのではないかとすら思える。


ここまでくれば、無意識にせよ、何かしらの忌避する理由があるのだと思っている。

自分は、だからこそ、というか、インパクトが大きくて、手前味噌ながら黒目よりもカッコいいと思うから、時々カラコンを休みの日にしている。

そして、反応を楽しんでいるw


自分の体験談ベースの話ではあるけれど、感じるのは、異質な存在だ。
白人や黒人が街中にいても、何とも思わないだろうけれど、自分が感じるのはそういうものではない。


もし、武術を収めた自分か、カラコンをした自分のいずれかしかできないとしたら、カラコンをした自分を選ぶな、と今日思った。

異質な存在でありたいという願望があるのだろうか?
いや、ありたいというよりも、異質な存在として見られたいのではないかと思う。

自分は平均からかけ離れている自覚はある。
それを端的に表すものとして、というか、異端だから、それでも、むしろだから仲良くなりたいと思う人の中で、気の合う人を見つけたい、くらいに思っている。


(イケメンじゃないけど)イケメンとして注目されたい、というのとも違う。


なんとなく、見た人が、ちょっと引け目に思っていることもあるような。
優越感を感じたい?

なんとも形容しがたい異質な存在として認識されたい方かな。
最初から見た目に表出していた方が、ある意味楽。

できるなら毎日カラコンにしていたい笑←普通のコンタクトより負荷は高いから金銭面以上に無理w
なのと、都心のど真ん中以外では明らかに浮くというのもあって、たまにしかしてない。

日本人の同調圧力の一種なのかとも思う。

なら、カラコン以外だって、というかそれができるなら、大したことではないんじゃないか。

 

「孤独と不安のレッスン」という本に、全てをわかってくれるもう1人の自分という存在を措定することは、現実にならないと書かれていた。

 

自分もそれに類する人が横にいてくれたらと思ったことが何度もある。

そしたらどれだけ良かったことかと。

でも、逆に自分がその立場になったのなら、そのおぞましさに気付いた。

例えどれだけ親しかったとしても、それをするのは気持ちが悪い。

 

そんな存在はいない。

そして、他人か他者しか存在しない。

全てを分かり合うことはできず、理解しようとし続けることができるだけだと。

 

関わる人が変わり、自分も変わっていく。

 

後は、意志だ。

 

子どもは、柔軟で感受性が豊かで繊細な代わりに、新しいことをスポンジのように吸収できる。

大人は、多少のことでは動じなくなる安定さがある代わりに、新しいことを覚えるのが大変になっていく。

子どもの時に、心に傷を負いやすいのは、それゆえだ。

その歪みは大人になっても引っ張られる。

自分の個性的な特徴を肯定的に打ち出しづらくなる。

それにずっと引きずられて、現時点でも完全には解消できていない。

そうやって、表に出すことも変わるには不可欠なことだと思っている。

 

そうか。

「全てをわかってくれるもう1人の自分」を望んでいたと同時に、自分を客観的に自分が作り上げた普遍という観点から突っ込もうとする自分も作り上げた。

自分で自分を監視するために。

「個性的」なことを言ったりしないようにするために。

だから雁字搦めになった。

人は個性的なところがなければ、魅力的にはならない。

「おかしな」ところがなければ、魅力的にはならない。

あるせくんのように寿司では納豆巻きが一番だ!のような個性が。

それを封じようとしたら、何の変哲もないものが残るだけだった。

 

だけど、そもそもカラコンして異質な存在だと思われたいのだから。

個性的でなければ、仲間は見つからないのだから。

「もう一人の自分」の役目は終わった。

 

「自分」という力への意志で歩み、道を拓く。