龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

「魔王になれる剣」を振りかざして造る未来 - 天才になりたかった過去の自分へ

あけましておめでとうございます。

これまでの総集編とその続きな感じで、過去書いたことも色々再登場して、余計に長くなりました。。

今年のタイトルは、転生モノ小説/コミックぽい雰囲気が漂っていますが、投稿サイト「小説家になろう」で、転生モノを読み漁っている影響が色濃く出た結果である、という説はきっぱりと否定したいところで、否定しきれません。

それはさておき、「魔王になれる剣」が実在するとしたら、それを手に取ってみたい、と思う人はどれほどいるのでしょうか。
もちろん、世の中にはいろいろな人がいるのが常である以上、それを嬉々として腰に差したい人もいるでしょう。
とはいえ、物語においても、それを持つ人物は目下の敵として認定されていることは、ほぼ間違いないだろうし、できれば近づきたくないアイテムに位置づけられるのだろうと思います。

でもね。
そんな呪いのアイテムともいえるものは、時としてそれとはわからない見た目をしているんじゃないだろうかと思うのです。
いい剣だと思って使っていたら、それが実は「魔王になれる剣」で、手放せなくなってしまった、なんてことが。
手にする前に、レベルの高い鑑定を使っておくべきだったと思ったときには手遅れ。
英雄への第一歩だったはずが、魔王として目の敵にされる闇堕ちですね。。

なんでこんな話をしているかというと、リアルにおいても、英雄は、時として、魔王にならなければ、英雄にはなれない、と思うからなのです。


今年はそんなところから、「私」がどのように道を歩みたいのかを書こうと思っています。

結論めいたものを先回りして言えば、「俺」は「魔王になれる剣」を手に取る以外ないのだととっくにわかっていた。
わかっていたけれど、取ったらどうなるかがおよそわかってしまうからこそ、取りたくなかった。

だから、ちょっとずつ外堀を埋めていくような、後ろ向きの行動をしていたのだと思う。

「普通でないのが嫌やって、そんなの餓鬼臭い我が儘やったな。
 人にはみんな人それぞれの、自分にしかない道があったやろうに、なんで俺はその道を、もっと一生懸命歩いて来なかったんやろ。
 恥ずかしいのは、そっちのほうで、自分が人とは違うことではないやんか。」

そのことに囚われてしまっていたから。
それを育ちの、幼いころの出来事が原因だと一言で片づけたところで、覆水盆に返らず。
以前書いたように、自分が今現在に至るまでに、違う道を歩めていた可能性を見いだせない以上、所与の条件だと思ってる。


自分でも不思議なほどに、捩子曲がってしまったお話。

俺は、ナルシストで、存在証明がしたいのだ。
それは、陽キャの人が取る方向性なのに。
でも、そう思うようになったのは、俺が陰キャになったからなのだ。

秋に書いた文章で、自分は99%の側に位置しているから、1%の側の人がどれほどのことをしてくれるのかを見る側がいい。
というより、1%の人が1%の人であることをできるように支援することで、より多くの、自分の心を動かしてくれること(人)を見たい、だから、自分自身が能動的になし得たいことはないと書いた。

そのために審美眼を養うのだと。

実は、もう一つ理由がある。
それは、「俺」はゼロからイチを作ることができない、ということだ。
新しい商品の企画、これまでにないサービスの開発、そうしたことがてんでできないし、やりたいとも思わない。
新商品を自分が作って、世の中に広めたい、という欲求は皆無である笑。

その意味で、俺は評論家タイプなのだ。
自分が良い悪いと思う価値機軸や判断はそこそこ持ち合わせていると、自分ながら思うのだけど、自分から何かを生み出すことはできない。

だから、「生きた証」を残したいとも思わない。

いつのころだっただろう。
自分は、なぜか、「わかる」のだと気づいたのは。
理由を説明できないのに、それがこういうことだと「わかった」のは。

何回か書いたように、飲み会をするときや旅先での店探しで、おいしいと思う店が、そこだとわかる理由は説明できないし、なぜその店が結果的に正解になるのか、毎回、ただ「わかったから」としか言えないのだ。

つまり、俺は「わかる」ことはできても、「作り出す」ことはできない。
その「わかる」ことのすごさでしか、自分が自分であることを証明できないと気づいた。
このお菓子を作り出したのは自分なんです、と胸を張って言えるようなことはできないということに。

そして、俺は自分がこれと思った人を口説き落としたくて、自分に興味関心を持ってくれるけど、自分が興味ない人はバッサリ切り捨てたい独裁者チックな性格なのでw、自社の製品やサービスがどれだけ好きでも、それの営業成績を上げたいとも思わない。

例えて言えば、ある会社から10億円の契約をとれたとして、周囲の人がなんでその会社からそれだけの契約を取れたのか、いくら話を聞いてもさっぱりわからない、と思われたい。
他の人が、自分には、その会社から契約を取ることは、まして10億の契約を取るなんて、取れた経緯をいくら聞いても無理だと思われることこそ、「俺」を存在証明できたと思い、俺ってすごいなと酔いしれることができる。

なぜなら、それは代えが効かないから。
他者が理解できる理由は、他の誰かでも出来得ることだから。
「俺」が「わかった」からできたことで、その理由は自分の脳内では論理的に完結しているけど、自分でも説明できない、他者にも理解できないことだから。

それこそ、「私」が「私」であることの、存在証明でしょう?

そりゃあ全世界探せば、「私」と同じことをできる人はいるかもしれない。
だけど、「自分」の周囲の人が、理解不能だと思えるくらいなら、大抵の人にはできないことだ、という言ってしまえば慰めだ。

だからといって、もし、「生きた証」が自分の子供や、新しい商品を作ったことや、趣味で蒐集した何かだったりするのなら、100年後に覚えている人が、名前が残っている人は、100万人や1000万人に一人くらいなのだから、「自分」は、いつか無名の存在になる。
そのために、「生きた証」を残そうとするよりかは、「自分」が「自分」という、他に代えの効かない存在なのだと、自分くらいは思える存在で在り続けたい。

それが「生」を謳歌する、ということじゃないのか。
そう、思ってしまった。

それが、ナルシストで、存在証明をし続けたい理由だ。
陽キャで王子属性だから、ナルシストになったのではなく、考えてしまうからこそ、そういう結論になった。

そして、「できる」のではなく、「わかる」からこそ、すでに存在するものを、多くの人に知らしめることを、自分がやるのはめんどくさいと思ってしまう。
マーケティングにより、地方の特産物が全国区になった、ようなことも、自分が直接したくはない。

「わかる」審美眼だけで、というより、その凄さだけを磨きたい、というドン引き存在。

例えば、グーグルに最初に出資したのは俺なんです。俺の見る目ってすごいでしょ。って内心で思いたいタイプ。。。
主観的に、他者にこう思われるんじゃないか、ってレベルでよくて、実際に他者に直接言われたいとはあんま思ってない。


つまり、「俺」は「天才」になりたかった。

天才は先天的に、頭がめちゃくちゃよくて、大学在学中に司法試験合格して、そのあと医学部で医師免許も取っちゃいましたw、とか、モーツァルトのような、幼いころからすごかったんです。というタイプが一般的だと思う。

けど、「天才」はなることもできると思う。
さきほど、自分がなぜわかるのか説明できない、と書いたけれど、再現性がある以上は、何かしら論理的な思考が脳内で行われているはずで、個人的に、それは構造分析とパターン分析ができたかどうかだと思っている。

物事は構造とパターンが存在しているもので、それがどのようなものであるかを見つけ出すことが、「わかる」ことの第一歩だという、半ば信念があって、それを意識的に繰り返すことで、無意識下で分析され、「わかる」のではないか。

だけど、自分が理由を説明できないけどわかったことは、怖かった。
もし、間違えていた時に、何の根拠もないことを責められたら逃げ場がなくなるから。
そう思っていた。

それは、「魔王になれる剣」を取るようなものじゃないか、注目されて有名税は払いたくない、そう強く思っていた。
そうなるくらいなら、ほどほどでいいんじゃないか、って。

それこそ、逃げに他ならなかったのに。
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グロービスを設立した堀義人は「創造と変革の志士」を輩出すると言明した。

ビジネスに限らず、芸術においても、「創造と変革の志士」は、歴史上あまたに存在したことだろう。

シベリウス
「評論家がなんて言おうと気にしないことだ。
これまで評論家の銅像が建てられたことがあったかね。」
という言葉を残し、アラン・チューリングは生前、十分な評価を得なかった。

「創造と変革の志士」は、かっこいいネーミングだと思うが、そして、これまでにない革命的な製品やサービスを開発した暁には、「聖剣エクスカリバー」を手にすることができた!と思うことが多いのだろうけれど、それは、大抵、「魔王になれる剣」なのだと思う。

あそこに「魔王になれる剣」を持ってるやつがいる!と言われて、各方面から攻撃されるのだ。
自分たちは、それは「聖剣エクスカリバー」だと思っているのに。

いくら、これはエクスカリバーだ、と叫んだところで、変わりはしない。

なぜなら、それは、エクスカリバーであると同時に、魔王になれる剣だからだ。

クロネコヤマトが大変な戦いを潜り抜けて、現在の地位を確立したように、後から見れば便利で素晴らしいと思う製品やサービスも、登場してちょっと人気が出たあたりで、既存の側からなんやかんやと攻撃されることが多い。
あれは邪道だ、間違っている、困る人が続出するなどと言って。

残念ながら、その魑魅魍魎に負けてなくなってしまったものもたくさんあったことだろう。

傍から見れば、「魔王になれる剣」で、持ってる当人は「聖剣エクスカリバー」だと思っていて、それが両立している。

誰しもが「エクスカリバー」を持っていると思うのは、皮肉なことに、魔王になった瞬間だ。
魔王になることでしか、みなに対してエクスカリバーを持っていることを証明できない。
魔王になった瞬間に、英雄になる。

つまり、「創造と変革の志士」は、その過程において、たいていの場合は「魔王」になる必要があるのだ。

このからくりに気づいている「志士」は魔王にならずに英雄になろうと画策してうまく立ち回っているのだろう。
悪目立ちしないようにしたり、普及度合いをある程度コントロールするようにしたり、既存側を味方につけるようにしたりして。


自分がどんなことをいいと思うのか、どう審美眼を磨くのか、そのために、現時点で考える理想の社会、こうなれば、今よりも全体の幸福度が上がると考える方向性を整理したのが、就職活動の自己分析だった。

金も人脈もない人間が、どうしてそんな方向がやりたいことなのか、そう思っても、納得してしまったので、まずは、自分に素直になることを実現させる。

そして、「魔王になれる剣」を取った、自分がこれと思った人に寄り添って、理想に一歩でも近づけるようにしよう。
その人(その会社)の外側に、心強い味方がいたら、素晴らしいことだと思ったから。

それは、自分がそうしてほしかったことの裏返しでもあった。

幼いころから変人だった自分には、居場所がなかった。
自分が認める誰かに、お前はそれでいいんだと言ってほしかった。

だから、「俺」は、そういう誰かに、自分にできる限りのことをしたいと願った。
それが実現できるようになるには、どれだけのこともすると自分に誓った。
自分に素直になることに20年以上を費やしたのも、そうだからだ。


自分の道は、実際に「魔王になれる剣」を持つ人ほど注目を集めることはない。
けれど、周囲からはまた浮くことになるんじゃないかと思って、自分も「魔王になれる剣」を持たなきゃいけないのに、持つことが怖くって、なのに、「魔王になれる剣」を持つ人の味方になりたいなんて。

自分に素直になりたいけど、そうなった結果持つことになる「魔王になれる剣」はできれば持ちたくない。
そう思っていた。

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宝くじの一等に当選したらどうするか?
ジャンボなら7億円だ。

そんな妄想をしたことはあるだろうか。

仕事を辞めて遊んで暮らす?どうやって遊ぼうか?世界一周?スーパーカーを買う?
夢は広がる。

でも、もし、本当に一等に当選したら、必ずしもそうするとは限らないんじゃないだろうか。
当たった人には冊子が渡されて、かえって不幸になってしまった事例や注意点が記載されているとかいないとか。

消極的な「魔王になれる剣」を持つことになるのだから。
突然家を全面リフォームしたり高級車が車庫に止まっていて、それが終わりへの始まりだった・・・。

自分も同じようなことをしていた。
もし、そうできるようになったら、どうしようか、どうなっているか。
その妄想の中で楽しんでいただけだったんじゃないか。

そうやって、本当にそうなることを避けていたんじゃないか。
「魔王になれる剣」を持たないように。

素直になろうと四苦八苦しながら。

そうしたいと思っていたけれど、今はそうする状況にないと思っていたから、先送りしてきた。
そうできる状態になってから、するべきものだと思っていた。
その先送りこそが、原因の一つだったのではないか。

なりすましてみること、模倣、真似をすることが、進歩の第一歩で、それができてから、自らの型を作るべし、というのが、能の真髄の一つとして受け継がれてきたことを鑑みれば。

なってみなければ、わからないものなのだ。
だから、「歴史は繰り返す」という言葉が存在する。
でも、なってみなければわからないことは、悲劇だけじゃない。
なる前からわかっていたら、なろうとするだろうか?
必死になんとしてもなし得ようと藻掻くだろうか。

なってもいないことを想像しても、どこまでいったって、想像にすぎない。


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朝井リョウに「死にがいを求めて生きているの」という本がある。

「生きがい」「死にがい」に、意味はあるのだろうか。

「誰かのために生きるなんてこれ以上はないほどの甘え」

生きることと死ぬことと、意味を結び付けて、人工的に作り出した概念じゃないのか。

恋や愛に理由はいらないというのなら、生きることや死ぬことには理由がいるのか?

そんなの、自分のためでいい。自分のためでしかない。

生きがいや死にがいを求めてさまようその本の登場人物に痛々しさを感じて、見ていられないのは、自分が同類だったからだった。

「魔王になれる剣」を持つ以外ないのに、どうにか持たないですまないだろうかと思い巡らせ、「生きがい」を見つけられたらこうなるだろうと妄想して。

「普通」でないことをして、周囲にそれをあれこれ言われるのがいやでできなかったのは、「普通」の王道を歩む人から言われるのは、いたたまれなかったのは、自分の居場所がかつてなかったからだ。
同類から言われるなら大丈夫だし、それでいいのだと肯定してくれる人から言われるのは安心できたけど、興味半分で言われるのは、自分に居場所がなかったことを思い起こさせるから、ダメだったのだと思う。
そんなこと、当時は思いもしなかった。
そう思えるようになっただけ、変わることができたのだと、人は変わることができるのだと思える。

この際書いてしまおう。
「俺」は媚びをうっている人が、とてつもなく嫌いだ。
でも、それは、自分がそうだったからだ。
嫌いと思う裏側で、自分もそうだということがある。
嫌われたくないと思う人に、嫌われまいと媚びを売っていたのだ。
それだって、怖さの裏返しだった。嫌われることを何よりも怖れていたからだ。

そして、自分なりの「保険」を求め続けた。
論理的であることだったり、「誰か」の引用であったりした。
もちろん、それは保険ではなく、自分を縛り付けるものでしかなかった。

あちこちに散らばめたように、「俺」はとても怖れていた。
怖れていたことすら気づいていないことも多かった。

遠回りといえども、向き合って向き合って、枯れ尾花の正体を見ては、次の枯れ尾花を暴いて。
自分の味方になってくれる言葉を、物語を探し集めて。

それを、痛々しいと人は言うのだろう。
だけど、そうする以外見いだせなかったし、大切なのは「これから」だ。

「「これまで」を「これから」への言い訳にしてはいけない」のだ。


「誰かのために戦うことは、結局は自分のために戦うってこと。
利己的な利他性って言うんだって、そういうの。
自分のこれからの自分のための戦いが、誰かのためになればうれしい。
みんなくだらないもののために戦っているんだよ。」

「知らん人に好かれたくて自分の人生やってないので。」


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思うのだけど。
「自由」はたいてい「狂気」とセットで、「理解」という壁の向こう側にあるんじゃないかって。

「自由」は何をしてもいい、ということではない。
犯罪以外なら何をしてもいい、ということでもない。

バズったツイートの一つに、等分に線が入っているホールケーキの適当なところが三角に切り取られていている画像がある。
ケーキを好きに切り取っていいと言われても、そういう切り方はダメだ、というお話。

どれが許容されて、どれが許容されないのか、それは物事や文化、人によって異なるだろう。
「自由」はそんな制約の下でしか存在しない。

だけど、そのケーキの切り方は、本当に許されないのか?
実は、こういうメリットがあって、理にかなっているのだと発見することが、新たな世界への1ページだ。
「魔王になれる剣」を、「聖剣エクスカリバー」だと思って手に取った瞬間。


エーリヒ・フロムは「自由からの逃走」において、人々は「~からの自由」になればなるほどに、孤独を感じて、その不安から逃れるために何かに服従しようとして、結局自由ではなくなってしまうことを説いた。

自由を求めて散々に叫ぶけれど、いざ自由になると、服従を求めてしまうという皮肉な話として、古典になった。

そうならないためには、「~への自由」という積極的自由が必要だとした。

一般には、とか、常識的には、とか、セオリーとしては、というアプローチや方法論がある。
もちろん、それなりに有効だからこそ、そうした言論が用いられるのだけれど、それだけで成功した人はまずいないだろう。

どこかで、上記に反したことをしない限り、いっぱしの成果は得られないのではないか。

そのときこそ、自由が求められていると思う。

王道から外れることをすることに怖さがあったり、あるいは成功しても叩かれたり。

けれど、広瀬隆雄が言うように、インフルエンサーは人から憎まれてなんぼのものだと。

彼は、テイラー・スイフトにもアンチがいるくらいで、誰にでもアンチはいるのであって、アンチがいない方がしょぼいと言った。
それに賛意を示す人がいても、同時に、それに反感を覚える人がいる方が自然だと。

「~への自由」を「自己の行為や生が自己の意志や決定に基づいているかどうか、自己自身を律しうる自立した状態にあるかどうか」とするならば、一般論や常識やセオリーと一致するとは限らない。

それは、自分で自分に責任を負っていることで、あらゆることに囚われていないことだと思う。


残念なことに?自由は、簡単じゃなく、めんどくさい存在だ。
一般論や常識やセオリーとも距離を置いたり、覚悟と意志が必要だったり。

「自由」が「理解」の壁の向こう側にあって「狂気」とセットだと思うのは、だからだ。
自由自体が、アンチなものなのだ。
インフルエンサーは、自由な存在の一つだが、憎んでいる人もいる。
それは、自分には(本当はしたいけど)できないことを好き勝手しているように見えるから。

「それは世間が、ゆるさない。世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?」太宰治人間失格より

「自由」な人はかっこいいと思う。
二枚目という意味でなく、見た目がどこかかっこいい。

そういう大人になりたかったのだと思う。


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「人間から悪い所を削ったら良い所も無くなる」んですよ
悪いところだけ削って、良い所を残すことなんて出来なくて、そういう事をすると「悪い所は無いが良い所が何もない人間」ばかり生産され、この世が停滞してしまう

「クズやからしょうがない。そう言わせたら勝ちや。」

「みんなから怖れられ、嫌われる存在になりなさい。
覇者とは、そういうものだから。
それが、最もコスパの良い人生。」

「幸せとは他人のことなんか一切気にせず自分勝手に生きること」

「自分の幸せだけを考えればいいんです。親も子も友人のためも必要ありません。
そして自分が幸せになったら、少しだけおすそ分けをしましょう。」
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お前のオリジナリティは、個性は何なのだ?
そして、それを見せつけるのだ。

「短所は裏を返せば長所になる。それは個性(オリジナリティ)だ。個性を見せつければいい。」

「自分のいいところは見せつけてなんぼ。
誰にも影響を与えられない人生なんて終わってる。」

「理解」を求めるのではなく、その向こう側で、「自由」と「狂気」の世界で、「俺」の「存在証明」をすればいい。

「人にどう思われるかが大切なのではない。今、自分が何をしていて、自分が何であるのかが大切なのだ。」

「俺」はそれが、注目をされるという意味ではないとしても、自分にとっては「魔王になれる剣」を持つ者になる以外、選べないのだから。

「人の目を気にせず自分を信じて行動すればいい。それがいつか必ず自信になる」

「天才」になれるなんて面白過ぎるし、そして、自分でも持て余すほどの激情を身の内に宿していることに感謝して。
それがあるから、心の底からできると確信し続けているのだし、それがあるから、20年だろうが何だろうがやってこれた。

所謂ひとつのゲーム 生まれながらに制す 右も左も解らずとも
諸行無常の理も俺の前ではお断りよ
今も昔もそしてこれからも
俺至上主義は色褪せない/Innocent Tyrant

これが俺の考える世界だって見せつけて、引き継げれば、楽しい人生だった、と胸を張って言えるんじゃないだろうか。

「〝けど〟じゃない。できる、できないじゃないんだ。〝やるんだ〟。
お前の決断を理想だと否定する奴がいるだろう。綺麗事だと笑う奴がいるだろう。
たしかに百人いても百人が選ばない選択かもしれない。だが、百一人目がお前だ。
奇跡はそういう奴にしか巡ってこない。否定して笑う奴らはすべて結果で黙らせろ!」

そういうことなんだよ。

最後に。
自分が何を望んでいるのか、自分でもわかっていないことがある。
こうして、今になって、なぜそういう行動をしていたのか、わかるように。
自分自身が何を望んでいるかわからないのなら、自分以外の誰かが何を思い、何を望んでいるかなど、想像できるはずがない。

だから、言葉にして、言葉を尽くして、誤解のないように、できる限り伝わるように。
人が多くのことになげうってきたのは、そのためなんじゃないかって。

人は原初から絶望しているんだよ。
だから、希望はあるんだ、って心のあらん限り叫んで証明しようとしているんだ。

「希望」がある限り、人はなりたい自分になろうとすることができる。
それこそが、「生」なんじゃないか。

その戦いの先に、何が待っているか、何が待っていても、「自分」が目にすることはできないとしても、そう思えることが、わくわくする。

これからも、間違いなく、間違えることはいろいろある。
でも、間違えたことない人もいない。
だから、堂々としていようと思います。

まふまふが言うように、人の轍は歩けないのだから。
自分の道を歩みます。

今年もよろしくお願いします。