龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

始まりにあたって

あけましておめでとうございます。

 

これを書いている昨日(12/30)の夜、夢を見ました。

おそらく高校生のころの自分が、体育の時間、クラスでバレーらしき球技をしている場面で、憂鬱な気分になりながら自分の番を待っているところだった。

運動が水泳以外からっきしダメだった自分は、体育の時間は本当に憂鬱で、球技のようなチームでやる種目は、足を引っ張るから周りにも迷惑をかける自覚もあって、楽しさの欠片もなかった。

夢の中で、案の定自分は失敗し、やってしまったと居たたまれない気持ちになったところで、目が覚めた。


なんでこんな夢を見たのだろう?

実際にあった場面の繰り返しではないだろうけど、そういうことはあったというタイプの内容で、とうの昔のことなのに、今になってどうして?


運動全般が苦手だった自分に、当時なにができたのだろうか。
どこかの運動部に所属して、練習を頑張ればよかったのか?
一人で密かに練習をすべきだったのか?
どこかの運動スクールに入って、練習すればよかったのか?

当時はそれらの選択を考えることもなく、ひたすらいやな気持ちを味わうだけの時間だった。
社会人になって、ある程度年数を経た今になって、その時の経験が何かの役に立ったかと言えば、何一つない。
だって、嫌な思いしかしていないのだから。

唯一人並みにできた、水泳だけが好きな種目で、体育は全て水泳にすべきだとくらい思うほど。
数年前、しばらくぶりに、一時、住んでいるところの公共プールに通って泳いでたら、やっぱ水泳っていいよなとしか思わなかった。

でも。
二年ほど前から、ジムに通うようになって、筋トレを初めてするにあたって、最初は少し高くても個別に一から教えてもらいたいと思って、パーソナル系のジムに通うことにしたら。

全く経験がないし、筋肉もありません、という状態で通い始めたけど、トレーナーの方々は、できないことに対して、責めたり見下したりするようなことを一切しなかった。

もちろん、商売で続けてほしいからというのはあるだろう。

それでも、できないことを前提に、最初はできなくて当然なんです、というスタンスで接してくれた。
伸びが他の人に比べてどうだったのかはわからないし、自分のペースでいいんですよ、という言い方で、誰かと比べることもしなかった。

きっちり追い込んでくれながら、やれば褒めてくれた。
半年くらいすると、自分でも体型が変わったことがわかるようになり、扱える重量も増えていき、はっきりと身体つきが変わったと言えるようになった。

最初に通ったジムをそこにして、本当によかったと思った。
トレーナーの方々が、そういう接し方をしてくれて、そういう教え方をしてくれることのありがたみが身に染みて、感謝しかない。


学校の体育の仕組み上、ということがあるのはわかりきっているけど、様々な運動の経験が、そうしたものであったなら、全く違う経験になっていた。
それは運動だけでなく、勉強にも言えることだと思う。

素直になれる自分というものは、そんな環境において生まれる。

どんな環境に自分の身を置くのか、ということは、どれだけ強調してもしきれないくらい大切な事柄だ。
初心者は邪険にされるようなジムだったら、嫌な思いをするだけだっただろう。


でも、親とか、育った場所とか、選べないものもある。
それによって背負うことになったものは、それが自分にとってデメリットになっているのなら、どうにかして清算する。

自分が素直になるために、必要だったのは、そのことだった。

じっちゃまこと広瀬隆雄が、日本人は正しいかまじめを判断基準にしがちだけど、快楽や楽しさで選ぶべきだと言っていた。
それは、一つのヒントだった。

コミュニケーション。
初めて聞いたときに、どんな概念なのか掴めなかった言葉。

それを俺は教わらなかった、子どものころに学べなかった。

誰と何を話していいのかわからなかった。
子どものころ、誰かに聞かれて話したことを、そんなことは話すものじゃないと後から怒られて、そんなこと今聞いたのにともやもやした気分になったこともあった。

自分がしたことを変な目で見られたこともあった。

何が変で何が「普通」なのかわからなくて、それで後から何かを言われることが、引かれることが嫌で、何かをすることが怖くなった。

同時に、毎日がつまらなかった。
小学生低学年のときから、毎日が面白くなかった。

話の合う人もおらず、自分がしたいこともわからず(大人になったらなりたいものがどうしてみんなあるのだろう、と不思議に思っていた幼稚園児w)、家にいてもこれといってなく。

褒めてもらうこともなく、怒られたくなく、報われない日常だったと思っていた。

怒られる可能性の少ないことをしよう、言おうと思うようになれば、完璧主義が生まれ、自分の色を出さないようにし、いつかは、分かり合える人が一人はいて、巡り会えると思う、拗ねまくった子どもだった。

感情を味わいたいから、かといって、悪い子にはなれず、自分でやらかして自分を罰することになり、拗れてしまっていた。

こうなったらいいのに、という希望は妄想で済ませてた。


実際問題、自分はとても変わってはいるのだと思う。
知り合いの多い人から、飛びぬけて変わってると言われるくらいには。

「魔王になれる剣」を振りかざすと去年書いたのも、素直な自分とそれがしたいことは、「人並み」から大きく外れている自覚があったことが大きい。

本当の自分は、自己中で、傲慢で、ドン引きされるような、あるいは、誰かを傷つけるような存在なのだと、理解されず変な目で見られるものだと、同時に間違えたら怒られる、だから、それは封印しておきたいと、それは封印して素直になるのだと考えていた。

誰かにわかってほしいけど、多くの人の注目は集めたくないし、ごく少数の人だけがわかってくれればいい。


そういうのって、どれも逃げなんだよね。
核心には手を付けず、外堀を埋めながらどうにかしようとしていただけ。

何かをするときに、目的達成のためにそれだけはしたくない、と思ったことは、いつだって、目的達成のためにはそれをするしかないことだった。自分の場合は。


ギラギラして野心に燃えてガンガンやっている人が羨ましかった。
それはなりたかった自分だったから。


ここまで書いてくれば推察してる人もいるよね。

 

自分がこれまで本気になったときは、どれもネガティブな理由だった。
地元の中学校には行きたくない、自分がそうだとは言われたくない、自分のせいでプロジェクトが失敗したなんてありえない。

だから、なりふり構わずやった。
そのためなら、どう思われようと知ったことじゃない。
素直になれた。

そうした極限状態に置かれたときに、自分を縛る柵が外れた。

変な目で見られようが、理解されなくても、間違えるかどうかなんて関係なく、そうなることだけは、なんとしても、何が何でも嫌だったから。

だから、ポジティブな方向で、自分に素直になりたい、そうなることが、本当の意味で素直な自分で、そこが本当の始まりだと。
絶対になれるという根拠のない自信だけで、何年(どころか十年単位で)なぜなぜを繰り返した。


11月、エリソ・ヴィルサラーゼのリサイタルを聞きに行った。
彼女の演奏を聴くのは2回目。

初めて聞いたとき、この曲の理想はこうだ!という揺るぎない表現をしていると感じた。

今回は違った。

他者を必要としていない、自分の世界、大勢の聴衆を前に演奏しているのに、聞いている我々を必要としていない、そう感じた。

それは、もし彼女が誰も聞いていない場所で演奏していたとしても、今回のように多くの人の前で聞いてもらうために演奏していたとしても、変わらない演奏ということ。

他者という存在に左右されない場所で演奏している。

そして、そのことと、彼女の演奏そのものが、壮絶な凄みを見せていた。

私たちは、他者の目線を気にしたり、無意識的にせよ意識していることが多い。
それを、あなた達がいるかどうかは全く関係ないのだと、演奏を通して発しているようだった。

それは、一つの到達点だと思う。

他者がいようがいまいが、自分の世界を、聞いた者の心を揺さぶる表現をできる。
自分の表現が、他者という存在によって、ぶれることはないのだという確固たる自信。

人は自分が何かをしたり言ったりするときに、他者の視線や目線を意識する。
そんなことしなくたって、「私」は変わらないのだという強さ。


周囲からの目線や言動を意識しまくっていた過去の自分とは真逆の場所に佇んでいた彼女。

自分がしたいことに、他者は必要ない。
誰かと協力して何かをすることはもちろんあるだろう。

ここで言う他者とは、他者のことを意識した自分の行動や言動は、自分がしたいことの前には、全く不要だということだ。

素直な自分とは、そういうものでしょう。


変な目で見られたら、理解されなかったら、間違えたら、そんなことは、何の意味もないことだった。

そして、「わかってほしい」ことすら不要だった。
わかってもらいたくて、したいことじゃない。

ただ、したいこと、するべきと思ったことをするだけなのだ。

 

さて。お題目。

恵まれない環境にいる子どもの中に、飛びぬけた才能や能力を持っている人がいたら、何かを何としても成し遂げたいと思っている人がいたら、彼彼女の思いが、自分がこうなってほしいと思う方向性と一致していたら、有形無形の支援をしたい。

そういうことは何回か言ったり書いたりした。

「魔王になれる剣」を持って、どこを目指しているのか。
自分が生きている間には決して達成されない社会。

それが、ベンサム功利主義、「最大多数の最大幸福」の実現。

同時に、全員が幸福になることは未来永劫ありえないと思ってる。
それは、全員が同一のクローンになった時だけ。

なぜなら、人には好き嫌いが存在し、排除したい本能を持ってるから。

だから、多様性社会、

「みんなが仲良くしなきゃいけないとは思わない。嫌いな奴は嫌いでいい。むかつく奴もいる。でも、そこにいることをお互いに許し合えればいいんだって思う」/テイルズ・オブ・シンフォニア

という場所で、少なくとも今よりは圧倒的にいい社会になること。
できる限り多くの人が、できる限り幸福になること。

そこに近づくために、できることをする。

邪魔をしない限りは、嫌いだろうがむかつこうが、構わない。
けれど、邪魔をするのなら、全力で排除する。

しっぺ返し戦略はゲーム理論の最強だと言われてるように。

それを礎にしてる。


能動的にする行為や言動は、どれだけ気を付けていたって、誰かを意図せず傷つけることがある。
その可能性を、結果を引き受けること。

よく言うでしょう。
「自分を愛そう」って。

自分のことを大切にするって、愛するって、どういうことなのかわからなかった。

それは、ある意味、我儘を押し通すこと、周囲を振り回すこと、他者を傷つけるかもしれないこと。
それって、暴力とも言う。神っぽくもある。

愛は、暴力と神っぽい。

「愛よりなされることは、善悪の彼岸に位置する」
ニーチェのこの言葉は、そう考えると、一層意味深に聞こえる。

「独りの一歩を踏み出す決意ができたとき、揺るぎない愛情を確信する」

そういうことだったのか。
自分の道を、他者に左右されない轍を歩むなら、自分を押し通して、その結果を引き受けることなのだから、愛することができるんだって。


それでも、まだ足りなかった。

ジョブスが言った
「もし今日が人生最後の日だとしたら、私は今日やろうとしたことを本当にやりたいだろうか」

多くの人が知っていても、実際にそうはできていないのは、実感を持てていないからだ。

人は、自分が実感できることによって、そう振舞える。
だから、歴史は繰り返すし、他者の気持ちや状況を想像することが大切。


そして、自分がしたいのにできないときには、隠れた信念が隠されている。
それをしないこと(すること)のメリットが何かあると思っているから、思うようにできないと思ってる。

冒頭の、見た夢に戻る。

起きて、なぜこれを今見たのか考えて、とても残念な真実に行き着いた。

自分が何かをしたって変わらないと子どものころに思っていた、ということだ。

その当時はそれが事実だったとしても、今はそうじゃない。
でも、そう思ったことは、その信念は、明確にして、対になるもので、そのエネルギーを減らさない限り、どこかで左右されているもの。

自分が何かをすれば変わる。


個性は、「おかしい」から個性だ。

車はプリウスが好きで、寿司はマグロが好きで、散歩が趣味です。
それを個性的と言えるか?
その人の個性と言えるのか?

寿司は納豆巻きが一番だ!くらいでなければ、個性じゃない。
そういうおかしさが個性だと思う。

プロの芸術家やスポーツ選手とて、高い結果を出している人ほど、個性的だと思う。
よくいえば、個性的、悪く言えば変態。

そうでなければ、トップには立てない。


生きる目的は、

「生きている美味しさを開発し味わうため」入不二基義

「続きを知るため」光の帝国

何が美味しいのかなんて、それこそ人によりけり。


だから、自分のペースで、誰と比べるもなく(他者を必要とせず)、できたことは褒め、きっちり自分を追い込む。
そういう環境が、居心地の良い場所なのだから。

わかってもらうためではなく、自分がやりたいことを、自分が納得できることだけを、自分が楽しいと思うことをすること。

そして、成り上がる。

成り上がるっていいじゃんと、あるせが年末に言っていたのを聞いて、なんかホッとした。
成り上がったら、あるせに赤スパガンガンするよ笑。

人は変わるし、変われるだけの力を持っている。

「人前で自分を出し切る快感を覚えたら、あなたはきっとそれを永遠に忘れないわ。」
「それはきっと、今、ここにいるあなたを肯定してくれる。」DIVE!!

他者を必要としないから、他者を突き放すから、他者を惹きつける。

でも、俺は、羽生結弦が言っていたような「自分にしか見せられない世界を見せたい」野望はない。
俺ってすごいなって自分に存在証明して自己満足したいだけだ。

そのとき、自分が本当に出会いたかった、他者に出会えるのだ。

幸せとは、「他人のことなんか一切気にせず自分勝手に生きること」だから。
そして、そのときにちょっとお裾分けを自分がしたい人にするものだから。


今年もよろしくお願いします。