龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

真逆

捨て身になる。
どうなっても構わない。それでも、こうするのだ、という思いでやる以外ない。

 

オレ様になれ。他人は他人自分は自分。どう思われようが知ったことではない。

傲慢になるんじゃないかと思っていたけれど、むしろこれまでの方が傲慢だった。
ちょっとずつ謙虚になってきたんじゃないかとすら思えた。

誰しもが自分の見方で見て行動している。
その誰かが自分と常に一致することはありえない。
そうなったら、もはや誰かではなくて自分そのものだから。

だから、「誰か」の行動に左右されることは、そもそもおかしい。

論理的に考えようとすると、ドツボにはまることが多い気がする。
論理的か感覚的どちらかに寄せないと、中途半端で返ってダメなことになる。

感覚人間だったのが、論理的になろうとして、みんなさほど論理的ではないじゃんとなって、論理的である方が外れくじを引かされているような感覚になって、開き直って、素直になるなら、感覚的である方向に切り替えて。

だけど、論理的さを引き摺っていた。
感覚的であるべきときに、論理を引用しようとして、論理で行くべきところで感覚で行こうとして、真逆のことばかりして。


本当にうまい人は、素人が見ても、圧倒的だとすぐにわかる。
迷いがない。無駄な動きや時間がない。
瞬間の判断と行動を繰り返している。

それを踏まえれば、迷って、あたふたして、失敗ばかりして、できるようになれるって吠えていた自分は、なんてカッコ悪くて、みっともなかったことだろう。

できてからのことを心配する時間があるのなら、今、目の前の問題を解決することに全力を尽くさないのは、逃げと呼ばずして、何と言える。


瞬間で決断行動し、良い結果をできる限り出していくことこそが、かっこいい。

 


どうやったら、もっとわかるように、できるようになるだろう。

圧倒的にできるようになるからこそ、自分がまだまだの存在だと思えるようになる。

脊髄反射行動。

そういうものなのだと受け入れろ。
よくわからないことが起きる世界なのだと。

その予兆がわかるのだと。

論理的じゃないから、根拠がないから、拒絶しようとしていたのか?
感覚でいくと、根拠なんて存在しないのだと、覚悟を決めたんじゃなかったのか。

論理的であり続けることなどできはしない。どこかで転換点や突破がある。

もっともやりたくなかった、やる価値のあることは何か。
それが、最もやるべきことだ。

もっとわかるように、できるようになる。
今できることをする。


そして、予言のようなもの、突然なぜかわからない予告を受け取って、その通りになるのだから。
その幸運に感謝し、最大限活用すること。

自信がないからしたくないのか。
試行を繰り返して精度を高めていけばいいんじゃないのか。

もし間違えていたとしても、すぐに認めて正せばいい。
その挑戦と過程を責められる謂れはない。

そう思ったことを、自分が信じていないように思った。
的中率は極めて高いのに、なぜ信じていないのだろう。

というか、信じたくなかった、という方が正しい。

どうして信じたくない?
信じたら、どうなるというのだ。何を怖れているのだろう。
結局は、そうなるのだから、怖れたところで、何かが変わることはないというのに。

現実のすべての行動が、奪いつくすようになるのでもない。
ゲームでの行動と現実の行動が等しくないのと同じことだ。

店選びは自分のためでもあるけど、一緒に行く誰かによかったと思ってもらいたいから発揮しているのなら、自分のために「自分のことだけを考える」ことに、何があるのだ。

けれど、かつては、それを無視して逆に自分から不幸になりにいっていたのだから、前進はした。

それは、わかったのに、そうしなかったことで、何かを逸したことへの怒りと憤りを感情の感覚として、受け取ろうとしていたことの名残だったんじゃないか。

だから、信じて行動して、しあわせに向かうのだ。
正の循環を歩むのだ。