龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

「私の世界」

俺は傍観者で、見せてくれよって思ってる。
俺の心を動かしてくれるものを。
そのためなら、できる限りのことをするからって。

自分では何かをできない。
見る目があるだけで。

その見る目を鍛えるために、本を読んだり、映画を見たり、美術館に行ったり、自然の風景を見に行ったりする。

俺は本当に何かをできないのだろうか?
人並みには頭も回って仕事ができるんじゃない?
そうなのかもしれないが、そうだとしても、人並みで、突出した何かではない。
世の中の、99%?の人は、人並みなんだからそれまでだというのなら、それ以上言うことはなくなってしまう。

だとしたら、代わりの利くことをがんばっても、そこまで意味のあることなのだろうか?

幸か不幸かクリエイター系の志向はなかったし、自分を何かしらの形で表現したいと思うようなこともなかった。

それなら、人並みに認められるくらいになれば、「仕事」は十分じゃないかと思っていたのかもしれない。
いや、やりたいと思うことが逆算的に捻りだしてみたくらいの内容で、トップを取りたいとも思わなかった。

片方で、素直になりたいと思ってあがいて、むしろ、そちらが、本業だった。
けれど、仮に、素直になれたとしても、その先に、したい何かがあるわけでもなかった。


人が、人間というものが、いかほどのことができるのか、見てみたいと思っている。
大谷翔平のような、伝説になれそうな人のなせること、心の底から感情が湧き上がる物語、向こう側に行けると思えるピアノの演奏、現実を揺り動かしてくれる美術作品、そうしたことをリアルに経験したい、そのためなら、という冒頭の話。

自分がたいしたことを為せないのならば、99%の側に位置しているのならば、たいしたことができる人やものを見る方が面白いし楽しくないか?

そう、ある種の諦念があって、発想を変えたのかもしれないし、したいと思うことが見つからない中で、だんだんとそちら側に切り替わったのかもしれない。

たぶん、多くの人は、自分のしたことを見てほしい、残したいと思っているんじゃないかと思う。
高尚に言えば、生きた証を。
白血病で若くして亡くなった山口雄也さんのように。

実際に死を目前にしたことはないけれど、少なくとも今の時点では、自分のしたことを見てほしいとか知ってほしいなんて思わないんだよな。

それよりも、俺の心を動かすものを、一つでも多く見せてくれよって思う。

素直になったら、どういうものが見たいのか、もっと明瞭になるだろうし、同時に、今書いているこれみたいに、自分の気持ちを素直に書き連ねるようになっていくのだろう。

志向性を問うとするなら、どういうものが見たいのか、というところで、理想の社会像らしきものは多少変化させつつも、基本形はとっくの昔に確立している。

見せてくれるんだったら、できる限りのことをするからさ。

人はどこかで、「これが私の世界だ!!!」と言うべきなんじゃないかと年初に書いたことを、自分も実行するなら、これが俺の見たい世界だ!!!が、これが私の世界だ!!!に変換直結するのだろう。

それをやりたい放題だというのなら、喜んで受け入れる。

いったい、何者なんだろうね?
宇宙人だからどうでもいいかw