龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

決着

自分が作り上げた一般的なことから外れたことをしたいと思ったときに、それに何かしらの理由をつけてやめようとさせる自分がいた。

 

例えば、つけ麺が有名なラーメン店に行ったら、お客さんは全員つけ麺を食べていたけれど、メニューにあったラーメンを見た瞬間、それを食べるべきと思ったのに、自分だけラーメンを頼むことに、もしまずかったら・・・といった理由がもたげてきて、つけ麺を頼んでしまう。

けれど、後からラーメンもつけ麺に負けじとおいしいとわかり、やっぱり頼めばよかったと思う。

他にも、論理的な根拠のないことをしようと思ったときにも、論理的なことをすべきだとか、いわば王道から外れないように働きかける思考の自分がいた。

ずっと、最初に感じたとおりに行動したくて、どうして、結局後から、そっちにすればよかったと思うのだから、そうすればいいのに、毎回、その場になると、させないように理由をつけて文句を言ってくる思考が生じるのだろうと、どうやったら、そうならなくなるのだろうと、考えてきた。

その時の思考を後からトレースして、これが原因だと思ったことに対しては、どうすれば変えられるかを考え、実践できるようにして、それを何十回と繰り返した。

もう終わりにならないかと、どれだけ思ったことだろう。
一向に出口は見えてこなかった。

「出口が遠のいたと思うのは、進んでいる証拠」

その言葉も頼りにしていたけど、出口が見えてこないのは、しんどかった。

ようやく、この数年、出口が近づいてきたと感じるようになった。
それでも、これで終わりではと思うことを繰り返した。


結局、それは、自分が変わった人物であるという自覚の元、おかしな目で見られないようにするために、自分が作り上げた、自分が思う「一般的」な価値観の自分で、そこから外れたことをしないようにするための、いわばもう一つの人格だった。

そして、もう一つ意味があった。

それは、他人事にすることができる、ということだ。
自分に対して起こっている出来事を、他人事して、無感情に反応しない。

本来ならば何か行動をするべき場面であっても、他人事として、何もしないで見たままになる。

なぜなら、どうでもいいと思えてしまうから。

理由は二つある。
子どものころ、毎日が本当につまらなかった。学校も家も、小学校の途中から通うようになった塾も。
すべてがつまらなかった。居場所もなかった。
面白いと思うことがなかった。

もう一つは、子どものとき、怒られることがとても嫌だったから。
何かをしてしまったときに、申し訳ないと思っているのに怒られる。
それがいやで仕方がなかった。

次はどうすればよりよくなるのか改善策を一緒に考えてほしかった。

それをやり過ごすために、他人事にしてしまうことを考え出した。
他人事なら何も感じないから。


それらに通底したこととして、褒められたことが子どもの自分にとっては、なかったと感じていたこともある。
自分が幼いながらに変わっていた自覚はあったけれど、自分のことを誰かに認めてほしかった。わかってほしかった。

だから、自分を護るために、「一般的な」価値観を持った「自分」が生まれ、そこから外れることにはブレーキをかけようとした。

これから起こる経験したくないと思うことを、他人事にしてやり過ごすことができるようにした。


それが、ずっと、素直になりたいと、思った通りのことをできるようになりたいと思っていたことの裏側だった。

 

そして、今の自分に後悔するところはないのだけど、だから、自分を受け入れていると思ってはいたけど、肯定しているのかと言われたら、つけ麺を頼んだ自分が嫌で仕方がなかったのだから、否定していたと言われてもその通りだということだった。

 

端から見れば、つけ麺を食べた自分が今の自分だからだ。

それを否定できない。だから、つけ麺を食べた自分は肯定する以外ない。

今の自分はこうなのだと。

 

どれだけ一般からかけ離れたことであろうと気にしないし、他人事にすることもない。

それが次の自分を肯定すること。

 

でも、ときどき、誰かにわかってほしいと思う。

自分で自分を叱咤激励し続けて、自分のことを想うのは自分以上にはいないこともわかっているけれど、欠乏ゆえもあってだろう、自分で燃料を燃やしてサイクルを回し続けることに、やるせなさを感じることもある。

こういうタイプの人間だとか、そんな理解はいらない。

わかってほしいのは、自分の思考をトレースするようなアプローチをしてほしい、という意味だ。

「わかってほしい、というのは、とても贅沢なことなんだよ」

そうわかっていても。

子どもの頃の経験は、ずっと後まで影響し続ける。いい意味でも悪い意味でも。

 

だから、自分が変わってもっと素直になって、うまくいくようになっても、自分がこれと思った人には有形無形の自分がしたい何かをし続ける。

 

やっと、スタート地点を過ぎた。