龍の棲み処

Blackdragon 黒龍のブログ

終点=始点

天才にならなきゃならなかった。


だけど、そう思われても、何もいいことがないと、思っていた。

褒められることもなく、目立っては叩かれたり嫌がらせをされたりするのだろうと思って、話の合う人が見つからなくて、ほどほどでいる方がいいのだと思って過ごすようにした。

いいことがないから、これでいいだろうと、時に悪い結果を引き起こすことをして、後で自分の正しさが証明されればざまあみろと思えるなら、それがいいとすら思っていた。

それは、天才であることが、自分にとっては根拠や理由をうまく論理的に説明できないことに、半ば絶望していたことも、輪をかけて消極的になる理由だった。

もし、間違っていた時に、何の根拠もないことを責められることに、耐えられないと思っていたからだ。


今となっては、そのすべてが足枷で、すべて開き直っていいのだと思える。

このあまりに絡み合って捻じ曲がってしまった因果を解きほぐすことに、あまりに時間がかかって。
なんでだろうと何百回思い、原因を考え、見つけては直すことを繰り返しても、変わらなくて。

一体、いつになったら、できるようになるのだろう。
どれだけやったら変わるのだろう。

出口が遠のいたと思うのは、進んでいる証拠だ、という言葉に励ましをもらっても、その出口にいつたどり着けるのかすら、まったく実感が持てず、ひたすら苦しかった。


出口が近づいてきた、と思えるようになったのは、この1年くらい。
そこまでに、20年費やした。
時間だけでなく、お金も、色んなことをあまりに費やした。

自分の絶対にできるようになれる、という確信だけを頼りに。


自分の周囲に、Twitterのような、関わったことすらなく、フォローしているだけの人であったとしても、自分がこれと思う人ばかりにして、同類と思える人を多く目にすることも大切なこと。

どこにいるのかすらわからなくて、ネットの時代になってもどうやって探したらよいのか、わからなかったけれど、やっと見つかってきた。


自分がなんか損な役回りを引き受けているように思うこともあった。
気づいてしまうがゆえに、それを解決することになって、時間を使って、なんで自分がしなければならないのだろう、と。気づかなかったら、それはそれで問題になるし、自分が見つけられることを受け入れてやるしかないかと納得させていたけど、納得はさせても完全には割り切れなかった。


自分がストレスなく、自分であることを発揮できる場所。
それを見つけたと思ったのに、書いてきたようなしがらみに、無意識が引っ張られていて、余計に苦しくなった。

好き勝手していいのに、いざその場面では、後から考えても、どうしてそんな風に考えて行動したのだろうと疑問にしか思わないことをしてしまう。

その原因を突き止める中で、出てきたのが、最初に書いたことで、自分で自分の切り傷を抉ってさらけだして、治していく。

なんでこんな思いをしなきゃならないのか、そう思っても何も変わらない。
ひたすら向き合って向き合って、突き止めて解決方法を考えて実践して、それを繰り返して。


やっと、本当に、やっと、好き勝手していいんだ、やりたいようにやっていいんだと思えた。

とことん突き詰めていいのだと、自分がしたいようにするのだと。

そう思えた。

 

絵の描き方は教わることができる。
けれど、何を描きたいのかは、自分の中にしか存在しない。


或世イヌというデビューしたばかりのVtuberが、あまりに楽しそうで、やらかしても笑ってがんばっていて、どうやったらあんな風に育つのだろうと思う。

真逆にいる自分には、底抜けの明るさが、輝いて見える。

俺は何をしたいのだろう。
大まかで緩やかな目標や、自分の存在を証明したいとは思うのだけど、どこか浮草のように揺れている。

時々、なんでこれを自分がしなくちゃならないのだろうと思うこともある。

それはたぶん、報われたと思ったことが、かなり少なくて、何かをしても報われたと自分が思えないからと思っているからじゃないか、と思っている。

それは、子供の時に愛情を受け取れなかった大人が、永遠に渇いているようなものじゃないのか。

なら、ずっとこのもやもやを抱え続けるしかないのだろうか。

何か方法があるはずだ。


人の顔色をうかがっていたから、楽しもうとする前にそれが来ていたから。
それもある。

超くんは、何か新しいことをしようとしたときに、親はいい意味で無関心で何も言われなかった、と言っていた。
だから、好き勝手やりたいことをやってこれた、と。

自分はそうじゃなかった。
確かに、ある意味では好きなようにさせてもらったのだけど、どこかで顔色を計算してた。

「これまでをこれからへの言い訳にしちゃいけない」

もっともっと自分勝手でいい。

年収が1000万超えた瞬間に、傲慢は堂々としたに変わるのなら。


レーニングは、気合という名の意志が大半を占める。
苦痛を伴うからだ。
トレーナーがいれば、追い込んでくれるので、補助魔法付きという感じ。

大抵のことは、意志があれば、大抵のレベルまではいける。

なら、おまえはどうしたいのだ?その意志がどれだけある?


「結果的に正解だっただけで、それはリスクのある選択だ。」
というのは、できない人間のやっかみだ。

成功も失敗も、実行した人間の責任なのだから。

そら見たことか、と人が挑戦して失敗することを望んでいるか、リスクなど取りたくないと逃げ腰でいるかのどっちかの言うことに、どれほどの価値があるというのだ。

頭と尻尾はくれてやれ、完璧である必要はない、という言葉に、首肯できなかったのも、そうでなければ、付け入られるスキができると思っていたからだった。

そのスタンスで、どうやって楽しめるというのか。

全力を尽くすもので、完璧や全てができることを目指すものじゃない。

全力を出したくないと思ったから、完璧路線に移って、何も楽しくなくて、行き詰って。

時として正解は不正解にもなる。


理不尽さ、意味不明さ。
ただ、ひたすら自分を信じて、感じたとおりにすること。

振り回されるのではなく、振り回すこと。

論理的である方が安全なんてことはない、ブラックスワンがひとたび起きれば、むしろ危険性は増大する。

普段はゆるゆるでふわふわしてる(はず)だけど、根本的には好戦的な、なんか矛盾してるタイプ。

全て開き直れ。躊躇することなどない。

自分がしたいようにする、とは、他者を一切顧みず、とことん自分を突き詰めることだ。

別に礼を失くせという意味ではない。

自分の道をひた走るのだ。

「自分の幸せだけを考えればいいんです。親も子も友人のためも必要ありません。そして自分が幸せになったら、少しだけおすそ分けをしましょう。」

 

どこかで、自分が限界まで追い込んでやるのはしたくないと思ってた。

できる限りはしたいけど、ああいうのはもうしたくないと。

 

でも、結局は、自分が変わると言うことは。

何かを断定することも怖かったんだなって思った。

お前がしていたことは、実はみっともないことで、しなかったことが、カッコいいことなんだって。

 

「自分の幸せだけを考えればいい」とは、おそらく50代のおじさんがヤフーの掲示板に書いていた言葉で、しあわせとは「他人のことなんか一切気にせず自分勝手に生きること」とは、20代のホストが書いていた言葉だ。

だから、一つの真理なんだろう。

本当にしたいことは何だ?

 

「普通」も「他人」も関係なく、自分のことを考えたとき、どうしたい?

 

まふまふのアルバム「明日色ワールドエンド」、最後の曲が「終点」で、死について歌った歌で締め括られる。

 

何かの終わりは別の何かの始まりだ。

お前の言う天才とは何か?

 

高校生が突然絵描きに目覚めて、美大を目指す「ブルーピリオド」は、主人公が限界の限界まで追い込まれる。

自分がしたい何かは、そうすることで、やっと陽の目を見る。

そうまでしても、したい何かがあったんじゃなかったのか。

勝手に諦めていった記憶のどこかに。

全力でコミットするしかない何か。

 

他者がドン引きすることばかりだったから。

ドン引きさせておけばいい。

 

俺は、これだけ「わかる」んだよ!!!って証明したい。

てめえらには決してわかりっこないだろ!!!

 

本当はそう思ってる。

そういう傲慢な人間(?)。

 

いいじゃん。「お裾分け」することもできるんだから。

美味しい店にありつけるじゃん。

問題解決できるじゃん。

 

本気になったのは、人生で実質的には2回しかない。

3回目をするに値することでしょ?

自分で自分にドン引きするとか思ってるからでしょ。

逃げてるものとは、向き合う以外ない。

向き合わないなら、永遠に追いかけてくる。

 

もうそういうもんなんだと諦めて受け入れろ。

後ろめたいとか思うんじゃない。

 

どう思われようが、それしかないんだ。

これまでの自分を終わらせて、葬る。

 

しょうがないんだよ。

そういうもんなんだから。

ドン引きしてくれ。

 

でも、正しいのは俺だ。

誰が何と言おうとも。

そう思わないなら、論理的に説得してくれ。

正義の数なんて、人の数だけ存在するのだから。

 

一つだけ親に感謝することを選べと言われたら、いや、二つだなw

自分でもびっくりする激情と「わかる」ことを授けてくれたことだ。

 

持てるものを活かさない手はない。

自分を表現する。

結果を出さなければ意味はない。

 

後悔は、過去の何処かで別の選択を取り得たと思うからできることだ。

別の選択を取り得なかったなら、後悔もできない。

だけど、その嘆きすら所与の条件の前には平伏す以外ない。

そういう「後悔」をしてた。
答えの存在しない後悔。

 

こうありたいと思っている自分が目前にいて、そいつが自分を導いてくれたら、どれだけいいかと思っていた。

ありたい自分が、いつか自分の目の前に現れてくれて、手取り足取りしてくれたら、それで十分なのにって思ってた。

それも、自分の怖さを誰かに代行してほしかったからだ。

自分と同じことをする誰かは、もはや誰かではなく、自分そのものだ。

それは自分自身の中にしか存在しない。

 

堂々としているだけでも、説得力は出る。

形も大切だ。

それすらしてこなかった。

あー、もう、しょうがないな。

過去は変わらない。

 

人は自分が背負えるだけの荷物を背負わされるという話、慰めのためであっても、結構好きだった。

だから、そういうことにしておこう。

 

ドン引きしてください笑

こういう人(?)だったんだって思わせるから。

今から、がんばるから。